聖徳太子の石像
聖徳太子の石像がありました。最近の教科書では厩戸王(うまやどおう)と書かれているようですね。十七条の憲法で有名な人ですが、実は実在しなかった人なのではないかという説もあります。
遥か昔の人であり、記載されている文献(古事記・日本書紀)も、神話と歴史が混ざったもので、聖徳太子の死後(622年)、100年近く後になって、制作されたものです。
- 古事記 712年
- 日本書紀 720年
古事記・日本書紀は、聖徳太子の前の蘇我氏と物部氏の争いあたりから現実味を帯びてきます。この争いは蘇我氏が勝利し、蘇我氏と関係が深いのが聖徳太子です。
聖徳太子は20歳のときに天皇の代わりに政治をする摂政につきましたが、その年齢では若すぎるので、叔父の蘇我馬子のサポートを受けたいたと思われます。
2015年に、この聖徳太子が破壊されるという事件が起きました。
この像は県の文化財に指定されているものですが、台座から落とされていて、2つに割れてしまっていたのです。
誰がやったのかは、すぐにはわかりませんでしたが、大きな音がして、男女2人が走り去っていくのが目撃されておりました。
後日、東京都在住で18歳の女性が捕まりましたが、写真を撮ろうとして近づいたら、つまずいて思わず像を倒してしまったと供述したそうです。
聖徳太子の像の前には柵があって本来近づくことはできませんが、この女性は柵を越えて写真を撮ろうとしておりました。
いっしょにいた東京都在住の30代男性は、像の破壊には関わっていなかったので立件されなかったそうですが、いい大人がいっしょにいて止めなかったのは問題だと思います。
維魔窟
このあたりは石像の群が続いて、維魔窟(ゆいまくつ)があります。首のない石像もあって、なんか不気味です。
べき蘿洞
分かれ道がありました。とりあえず、奥の院の方へ向かいました。
べき蘿洞です。なんか冒険をしているみたいです。「べき」の漢字が変換しても出てこない。
くぐり抜けたと思ったら、もうひとつありました。
奥の院
奥の院にたどり着きました。正式には奥の院無漏窟(おくのいんむろうくつ)といいます。
奥の院にはあまり近づくことが出来ませんでした。なぜならハチが、うようよいたからです。石の隙間にハチの巣があるみたいです。
危険を感じたので、さっと写真を撮ってすぐに引き返しました。
日牌堂
分かれ道まで戻って、今度は日牌堂座禅石(にっぱいどうざぜんせき)の方へ向かいました。
間もなく日牌堂(にっぱいどう)が見えてきました。
宝筐印塔
すぐとなりには宝筐印塔(ほうきょういんとう)があります。
あせかき不動
さらにすぐとなりには大野英令の墓があります。大野英令(大野甚五郎英令)は江戸時代に鋸山の大仏を制作した人です。
あせかき不動、百射観音、座禅石と石像が続きます。あせかき不動は柵にカメラのピントが合ってしまって残念です。
百射観音
百射観音です。
座禅石
座禅石です。首が落ちてますね。
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