千葉県の成田市にあるお寺といえば成田山新勝寺が有名ですが、少し離れたところに宗吾霊堂(そうごれいどう)というお寺があるのはご存知でしょうか。
通常、寺の名前は○○寺とかになりますが、ここが宗吾霊堂と呼ばれるのはなぜなのでしょうか。その背景には江戸時代に起った悲劇の出来事があります。その歴史的背景を知っているのと知らないのでは、参拝の際の心構えに大きな差が出てくると思います。
また元マラソン選手金メダリストの高橋尚子さんが、この宗吾霊堂のお守りを身につけて大会に出場していたことで知られています。高橋さんは岐阜県の出身で、ここは地元でもないのにこの思い入れは不思議な感じもします。そのあたりの理由について考察してみたいと思います。
さらにこの宗吾霊堂は桜の名所として知られている場所なので、鮮やかな桜の写真なども紹介したいと思います。
宗吾霊堂ってどんなところ?
さて宗吾霊堂ってどんなところなのでしょうか。お寺なのになぜ宗吾霊堂というのでしょうか。簡単な歴史などについて解説していきたいと思います。
宗吾霊堂は正式には鳴鐘山東勝寺(めいしょうざんとうしょうじ)といいます。この東勝寺は創建がいつなのかは、はっきりとしておりませんが、平安時代に初代征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が房総を平定した時に戦没者供養のために建立したのが始まりだと言われております。
宗吾霊堂の周辺のお寺では成田山新勝寺が有名ですが、この神勝寺というのは東勝寺より新しいという意味でそう名付けられたと言われております。新しいと行っても新勝寺も平将門の反乱に関係する古いお寺です。
東勝寺なのになぜ宗吾霊堂なの?
ではこの東勝寺ですが、なぜ宗吾霊堂と呼ばれているのでしょうか。その由来について簡単に解説していきたいと思います。
きっかけは江戸時代のある悲劇の出来事にあります。徳川家綱が将軍として収めていた時代に、このあたりの名主だった木内惣五郎(きうちそうごろう)という男が、凶作と重税で苦しんでいた農民たちを救うために、幕府に訴えかけました。
この訴えは受け入れてもらえませんでしたが、惣五郎は諦めませんでした。なんと当時、ご法度と言われていた将軍への直訴を決行したのです。
これによって惣五郎の望み通り重税は見直されましたが、将軍への直訴は重罪であり、1653年に惣五郎は子供たちもろとも処刑されてしまいます。このとき惣五郎42歳、長男の彦七は11歳、長女とく9歳、次女ホウ6歳、3女トチはなんと3歳でした。
この当時は10歳未満の女子に死罪は適用しないのが慣例があったそうですが、面目を失った佐倉藩は惣五郎を憎むあまり、3人の女の子を戸籍上男に変えて処刑したということです。
このとき、すでに嫁いでいた2人の娘は罪を逃れることができましたので、惣五郎の子孫は現在も存在しています。
惣五郎とその子どもたちの亡骸は、処刑場となったこの場所にひっそりと埋葬されましたが、100年後に佐倉藩は惣五郎の名誉を回復し、宗吾道閑居士という諡(おくりな)を与えました。諡というのは、その人の生前の行ないをほめたたえて死後におくる名のことをいいます。
そしていつしか惣五郎が祀られいるこのお寺は宗吾霊堂と呼ばれるようになりました。
高橋尚子さんがよく参拝していた?
この宗吾霊堂ですが、元マラソン選手の高橋尚子さんが、よく参拝していたとして知られています。
金メダルを獲得したシドニーオリンピックでは、宗吾霊堂のお守りをユニフォームにつけていたといいます。このエピソードから、彼女の宗吾霊堂に対する強い思い入れが感じられます。
高橋尚子さんは岐阜県の出身で、小中高と岐阜の学校に通っています。そんな高橋さんが宗吾霊堂に思い入れがあるのは不思議ですが、これにはマラソンの指導者であった小出義雄氏の影響があると推測されます。
小出氏は千葉県佐倉出身で、佐倉アスリート倶楽部という団体を立ち上げております。宗吾霊堂は佐倉に近い成田市内にあるので、小出氏にとっては幼い頃から馴染みの深いお寺だと思われます。
高橋尚子さんも2003年から佐倉アスリート倶楽部に所属して、宗吾霊堂の近くによく来ていたと思われますが、シドニーオリンピックで優勝したのは2000年とそれよりも前です。ただ、小出義雄氏の指導はずっと前のリクルート時代から受けております。
ちなみに小出氏はシドニーオリンピックのとき、競技途中で高橋選手の優勝を確信して、早々と祝杯をあげたそうです。飲みすぎたため、高橋選手をゴール地点で迎えることができなかったというエピソードがあります。
宗吾霊堂の見どころは?
それでは宗吾霊堂の見どころについて紹介していきます。
惣五郎のお墓
正面入口を入って少し進んでいくと右手の方に木内惣五郎とその4人の子供たちのお墓があります。ここは惣五郎らの刑が執行された場所でもあります。
立派なお墓ですが、当時は罪人で藩主にも恨まれていたので、この墓は惣五郎の死後、かなり後に建てられたものだと考えられます。
大山門
大本堂の前に建っている立派な門は大山門です。作られたのは昭和53年で、わりと新しい建物です。
鐘楼堂
大山門をくぐると右手には鐘楼堂があります。こちらは昭和27に建てられました。
最近では騒音問題などでお寺の鐘をつくことはなかなかできなくなりました。離れたところから見ると、付いても良さそうな感じがしたので近づいてみたところ、案の定駄目でした。
ただ調べてみると、どうやら正月の除夜の鐘のときに先着で参拝客がついてもいいようです。ですが近年では除夜の鐘の騒音も問題になってきているので、現在はできるのかどうかわかりません。
興味のある方は問い合わせてみてください。問い合わせ先にこちらの記載されております。
大本堂
宗吾霊堂のメインの建物である大本堂が建てられたのは大正10年です。この東勝寺は歴史のある寺ですが、建物はそれほど古いものはないようです。
明治時代に火事があったようで、そのときに古いものは焼失してしまったようです。
大本堂の中を覗いてみると、宗吾霊とあります。お寺といえば普通は釈迦像などを本堂にあって祀っていますが、このでは宗吾様の霊を祀っているようです。
宗吾顕彰碑
こちらの宗吾顕彰碑は「学問のすすめ」で有名な福沢諭吉の発案で建てられました。
3月下旬でしたが、宗吾霊堂は桜のスポットにもなっております。他にも至るところに桜の木があるのですが、この宗吾顕彰碑周辺の桜は特に見事なものでした。
宗吾御一代記館
この宗吾御一代記館は、宗吾様の生涯を人形で解説する資料館で、子供にもわかりやすいようになっております。午後4時までの営業となっております。
この場面は、怒りが頂点に達して一揆を試みた農民たちを制止する惣五郎です。こんな感じで惣五郎の物語を視覚的に学ぶことができます。また、ボタン式でその場面の解説音声も流れます。
宗吾霊堂へのアクセス方法は?
宗吾霊堂のアクセス方法について紹介します。電車の場合は最寄りの駅は京成線の宗吾参道駅となります。改札口を出て西口に向かいます。
西口を出てから、真っすぐ進みます。
突き当りを左の方に曲がると、宗吾霊前と書いてある標柱があります。ここを真っすぐ進みます。
しばらく進んでいくと、門が見えてきます。門の先はしばらく坂が続きます。
道沿いの桜が綺麗だったので、思わず写真を撮りました。
突き当りを右に曲がります。標識が見当たらないので初めて来ると、ここで戸惑ってしまうかもしれません。
このまま、まっすぐ進めば、間もなく宗吾霊堂が見えてきます。
鳥居風の入口が見えてきました。宗吾霊堂に到着です。
入口の左型には無料の駐車場もあります。成田山の駐車場は平日でも結構混んでいますが、こちらは平日なら基本的に余裕があると思います。ここの桜もなかなかのものでした。
無料の駐車場は奥の院の先にもあります。
駐車場のすぐ近くにはトイレもあります。
奥の院側の駐車場ですが、桜が見事です。
宗吾霊堂周辺のお食事処は?
宗吾霊堂の周辺にはいくつかお食事をする場所があるので紹介します。
食堂まぐろや
食堂まぐろやは宗吾霊堂入口のすぐ前にあります。午後3時までの営業となっております。
マグロ丼はボリューム満点です。
甚兵衛そば
甚兵衛そばは、食堂まぐろやと同様、宗吾霊堂正面入口前にあるそば屋です。
みはし亭
宗吾霊堂から宗吾参道駅の方へ少し向かうと、そば屋のみはし亭があります。
海幸しのぶ
奥之院川の駐車場近くにある「海幸しのぶ」です。リーズナブルなランチメニューがあります。
カキフライ定食を頼んでみましたが、このボリュームで千円以下でした。
宗吾霊堂周辺の見どころは?
宗吾霊堂周辺の見どころについて紹介したいと思います。宗吾参道駅の近くに義民ロード案内図というものがありましたが、これを見て寄り道をしてみました。
麻賀多神社
麻賀多神社(まかたじんじゃ)は4、5世紀からあるという古い神社です。
麻賀多神社の境内には御神木があり、樹齢はなんと1300年を超えると言われております。
本数は少ないですが、神社の前にはバス停があり、ここからバスで公津の杜駅に行くことができます。
ちなみに、ここから1キロ強離れた場所には「奥の宮」と呼ばれるもうひとつの麻賀多神社があります。
宗吾旧宅
宗吾旧宅は宗吾様こと木内惣五郎の生家です。
惣五郎のご子孫が管理されてるということで、大変なご苦労が伺えます。中を見たい場合は空いているかどうかわからないので、事前に確認しておくことをおすすめします。宗吾旧宅ホームページに問い合わせ先が記載されております。
甚兵衛公園
かつてはこの場所から印旛沼の対岸に渡し船が通っていましたが、甚兵衛大橋の完成で渡し船の役割は終わりました。
甚兵衛(じんべえ)というのは、惣五郎が領民の窮地を救うべく江戸へ直訴に向かうとき、禁を犯して深夜に舟に乗せ、対岸まで送り届けたという男の名前です。その後は印旛沼に身を投げました。
甚兵衛公園には立派な松の木がいくつかありますが、春は桜も楽しむことができます。
園内には甚兵衛を称える碑があります。
まとめ
千葉県成田市にあるお寺、宗吾霊堂の歴史や見どころなどについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
このお寺の正式名称は鳴鐘山東勝寺なのですが、宗吾霊堂という名前の由来には江戸時代に起こった悲しい出来事が関係していたのですね。この起源を知っていれば、参拝する際の気持ちも変わってくると思います。
元マラソン選手の高橋尚子さんが、地元でもないこのお寺に思い入れがあったのも頷けるのではないでしょうか。
宗吾霊堂は桜の名所としても知られており、3月下旬から4月の上旬にかけては桜の花見を楽しむことができます。また、宗吾霊堂には広い紫陽花園もあり、6月には紫陽花まつりが開催されます。
- 正式名称は鳴鐘山東勝寺(めいしょうざんとうしょうじ)。
- 創建時は不明。創健者は初代征夷大将軍の坂上田村麻呂。
- 宗吾霊堂と呼ばれる由来は江戸時代におきた木内惣五郎という人物の悲劇の出来事。
- 元マラソン選手の金メダリスト高橋尚子さんよく参拝していた。
- 春は桜のスポット。
- 最寄りの駅は京成線の宗吾参道駅。
- 近くには木内惣五郎の生家が残っている。
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