千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館は歴史学、考古学及び民俗学に関する資料が展示されている、日本で唯一の国立博物館です。
佐倉城の跡地に建てられているのですが中は広く、展示品も豊富で歴史好きにはたまらないと思います。動物などの模型もあって、小さなお子様でもそれなりに視覚的に楽しめると思います。
国立歴史民俗博物館は主に6つの展示室で構成されていることは、以前の記事で説明いたしましたが、順路的には第一展示室の古い時代から見ていくことになります。
- 第一展示室:先史・古代
- 第二展示室:中世
- 第三展示室:近世
- 第四展示室:民族
- 第五展示室:近代
- 第六展示室:現代
もちろん、古代の部分は以前に来て見たので、今回は第1は飛ばして、第2の中世から見るということも可能です。また、第1から第3は前に見物したので、第4からということもできます。
今回は第1展示室から順を追って見どころなどについて紹介したいと思います。展示物の量が膨大なので、その中から一部をピックアップしていきます。
プロローグ
入場券を渡して、第1展示室(先史・古代)に入っていくと立体的な人々の絵が迎えてくれます。
服装を見ると、どうも近現代の人々のようです。古代なのに、なんで近現代? と思うかも知れませんが、この場所はまで古代ではなくプロローグの間という位置づけです。
進むにつれて時代が古くなっていきます。これは江戸時代あたりでしょうか。
武士たちが活躍した中世の時代ですね。
古墳時代、弥生時代、縄文時代ですね。プロローグでは時代を遡る感覚を演出しているように思います。
氷期・縄文時代
プロローグの部屋を進んでいくと、数万年前の地球の地図があります。ここからがいよいよ、第1展示室(先史・古代)の始まりです。
数万年前の日本列島はユーラシアと陸続きになっていました。アフリカで人類が誕生したのは500万年前とか700万年前とか言われますが、人類は歩いてユーラシアを渡って日本に来たと思われます。
日本列島に人類が出現したのは、およそ3万7千年前といわれております。1万2千年前までが氷期でその後、温暖化しました。
ナウマンゾウの模型
ナウマンゾウの模型です。約1万5000年前まで生息していて、その後絶滅した像ですが、日本で化石が発見されています。アフリカゾウやインドゾウと比較するとやや小柄です。
隣りにいるのは3万6千年前の狼です。
狼の模型のアップです。ナウマンゾウの隣でかなり小さく見えますが、実勢のサイズはシェパードより、やや大きいぐらいです。
2万年前の人骨
沖縄の港川で見つかった2万年前の人骨です。写真の骨は「港川1号人骨」で男性ですが、身長は男性が153センチ、女性が150センチだといいます。現在人の平均よりはかなり小さいですが、有名な戦国武将の身長も意外と小さく、この縄文人に近いです。
いろいろな説がありますが、徳川家康は約157センチ、武田信玄は160以上あったという説や153センチという説があります。上杉謙信も156センチ、織田信長は当時としては大柄で170センチ程度だったそうです。
ちなみに江戸時代でも、人々の平均身長は男性で155から156センチ、女性で143から145センチだといいます。
縄文時代から江戸時代まで日本人の身長は、あまり変わっていないと思いきや、実は平均身長は上がったり下がったりしているそうで、平安時代の前期では男性の身長は平均161センチだったという説もあります。
毛皮を着た縄文人
数年前に来たときには確かなかった縄文人の人形です。一瞬、人が座っていると思ってドキッとしてしまいました。
北方の人々はこのような毛皮の服を着て、寒さをしのいでいたそうです。シカやアザラシの革が使われていました。
縄文人の顔の特徴は丸顔で堀が深いそうです。同時期のアジアでは同じような特徴の人は見られず、独特に進化したと思われます。
縄文土器
教科書などで一度は見たことがあると思われる縄文土器です。
シンプルな弥生土器と比較して鮮やかな模様がついているのが特徴です。縄などで模様をつけているため、縄文土器と呼ばれるようになったそうです。
子供の頃は、どう見ても縄文土器のほうが弥生土器よりも複雑なので、縄文から弥生で文明が劣化したのかと思ってしまいました。
縄文人は暇で、これぐらいしか拘るところがなかったのでしょうか?
しかし、調べてみると弥生土器のほうが薄くて硬度も高いそうです。薄くなれば、当然重さも軽くなり、持ち運びも楽になります。つまり、実用性は弥生土器のほうが圧倒的にいいということです。
縄文人の生活
こちらは縄文人の食事です。なかなかのご馳走だと思いませんか?
芋、木の実、魚、イノシシや鹿の肉、山菜、左の上にあるのはパンですかね。調べてみると、縄文人はドングリなどをすり潰してパンを作っていたそうです。
以前に自己啓発化健康に関する本で、縄文人の食生活が人間にとって理想だと書いてあった記憶があります。
こちらは縄文人の服ですが、想像によるものです。残念なことに縄文時代の服は発見されておりませんでの、土偶などを参考にしているそうです。
縄文人も犬を飼っていました。縄文犬のサイズは柴犬のように小さいです。狩りなどのお供をして死後は埋葬して墓も作ったりしていたそうです。
縄文時代の推定人口ですが、今と比べるとかなり少ないですね。今は東京都だけで1400万人程度いるのですが、当時は関東でも10万以下です。
東北、関東、中部に人口が偏っていて、西日本はかなり少ないのが不思議です。西日本で大きな災害でもあったのでしょうか。
三内丸山遺跡の復元
三内丸山遺跡は、青森県青森市大字三内字丸山にある6000万年前から4500万年前頃まで続いていてた村の跡です。2021年7月27日、北海道・北東北の縄文遺跡群として世界文化遺産に登録されることが決まりました。
エジプトではクフ王のピラミッドが作られていた頃ですね。外国ではピラミッドのようなすごい建築物が作られているのに、この頃の日本は動物を追いかけ回している原始人だったのかと思っている人もいるかもしれませんが、この模型をみると当時の日本もなかなか侮れないと感じることでしょう。
竪穴式住居は数十連あったそうですが、最大のものはかなりの大きさです。実際は32メートルの長さがあるそうです。ちなみに現地では建物が復元されていて、中に入ることもできます。
高床式住居もありますが、倉庫に使用されていたのでしょうか?
土偶
土偶も歴史の教科書でよく見たことでしょう。縄文時代に作られた土人形ですが、その多くは妊婦した女性をかたどっているそうです。
使用目的は祭器、お守り、子供の玩具など、いろいろな説があります。
一般的によく知られているのは、こちらの形の土偶ですが、実物は国立東京博物館にあるそうです。
弥生時代
弥生時代は稲作を主とした時代で、紀元前10世紀頃から始まります。
この頃から副葬品とともに墓が現れます。縄文時代は身分の差がなかったようで集団埋葬が行われていましたが、この頃から権力者が登場したためか、豪華な墓が作られるようになったと思われます。
磨製石剣
こちらは福岡県で見つかった墓の副葬品で、磨製石剣です。意外と切れそうな感じがしませんか?
この磨製石剣が武器として使用されていたのか祭具だったのかはわかりません。でも、これを見ると武器として使えそうな気がします。
磨製石剣は弥生時代になってから誕生したというわけではなく、縄文時代の後期の遺跡からも出土するそうです。もっとも、縄文時代から弥生時代へは具体的な王朝交代とかが行われたのではなく、その境界はあいまいです。
ちなみに、打ち砕いて作られた石器が打製石器(だせいせっき)で、これらの石器が使われていた時代を旧石器時代と呼びます。
打製石器に対して、石を磨いて作られた石器が磨製石器(ませいせっき)となります。
ちなみに、こちらは磨製石器の斧となります。鉄の斧と違って、木を切ったりすることは難しいと思われますが、これで殴られたらひとたまりもないですね。
銅鐸
こちらの銅鐸(どうたく)も、教科書などで一度は見たことがあるのではないでしょうか。
銅鐸は西日本で出土するものなのですが、何に使用されていたのかは定かではありません。語源となった鐸というのは古代中国で使用されていた楽器のことをいいます。
日本の銅鐸が楽器なのかどうかはわかりませんが、風鈴のように中に芯を吊り下げて、音を鳴らして使っていたと考えられています。
大きさは長さが10センチ程度のものから1メートルと超すものまで様々です。
銅剣・銅矛
こちらの銅剣は紀元前1世紀のもので、福岡県の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)から出現したもの複製品です。
ちなみに、三種の神器である天叢雲剣(読み:あまのむらくものつるぎ|別名:草薙の剣)は天皇でさえも見ることができませんが、江戸時代に熱田神宮の神官たちがこっそりと見たという記録によると、錆はなかったそうです。
この記録が本当だとすると天叢雲剣は銅剣ではないかと、推測されます。
こちらの銅矛は紀元前4世紀のもので、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)で発見されたものの複製です。こんなもので刺されたら、ひとたまりもないですね。動物を狩ることも可能でしょうが、戦の武器として使用していたのでしょうか?
木製の鎧
こちらの木製の鎧は岡山県の南方遺跡(みなみかたいせき)で発見されたもので、紀元前3世紀のものです。用途は人間同士の戦いであることは明らかです。のどかで争いがなさそうな縄文時代と違って、弥生時代は戦いの多い時代だったのでしょう。
環濠集落の模型
環濠集落の模型です。環濠集落(かんごうしゅうらく)というのは周囲に堀をめぐらせた集落のことをいいます。
環濠集落は西日本から関東、新潟で存在が確認されておりますが、東北では見つかっておりません。堀は外敵から守るために設置されているもので、この頃には人間同士の戦が盛んだったと考えられます。
稲作には領地と水源が必要となります。この時代に領地が飽和していたとは思いませんが、水源はどこにでもあるわけではありません。当然、それらを求めて争いが起きるわけです。
堀の周りの様子です。柵があって、その脇には堀があります。
家猫の模型
弥生時代になって人類の戦いの形跡が続いていたので、ここでちょっとほのぼのとする模型を紹介します。
こちらは家にいる猫の様子を表した模型であり、高床式住居の中に猫がくつろいでおります。これを見て修学旅行の子供たちが「猫がいる」とか言って喜んでおりました。
長崎県壱岐の遺跡(紀元前3世紀~2世紀)から、家が飼っていたと思われる猫の骨が出現しました。犬は縄文時代から人間が飼っていましたが、この頃には猫も飼い始めていた可能性があります。
縄文人女性と弥生人女性の再現模型
縄文人女性と弥生人女性を再現した模型です。どっちがどっちだか、わかりますでしょうか?
答えは左が弥生人、右が縄文人です。顔はそれぞれの時代の人の頭蓋骨から復元しております。縄文人女性のほうを見たとき、一瞬、柔道の元金メダリストが頭によぎりました。弥生人のほうは、あまり日本人っぽくなくない感じですね。
「漢委奴国王」金印
こちらも教科書などで一度は見たことがあると思います。漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)です。国立歴史民俗博物館にある金印はレプリカであり、本物は福岡博物館に保管されております。
数年前に来たときには、展示していなかったと思います。もっと大きいものかと思っていましたが、1辺が2センチ強とかなり小さいです。
中国の後漢書に光武帝が57年に奴国(なこく)からの朝賀使へ印を授けたという記録があり、それがこの金印だと考えられております。奴国というのは、現在の博多辺りにあった国だといわれております。
この金印は江戸時代に志賀島で百姓が巨石の下から発見しました。発見場所は現在は金印公園となっております。
金印といえば邪馬台国の卑弥呼が魏の国から授かったものがよく知られていますが、魏志倭人伝という文献に登場するだけで実物は発見されておりません。
銅鏡
弥生時代後半の遺跡からは鏡が出てきますが、最初の頃は中国大陸から渡ってきたものでした。邪馬台国の卑弥呼にも三国志で有名な魏の国から、百枚の銅鏡を送られたと記録されております。
こちらは三角縁神獣鏡(さんがくぶちしんじゅうきょう)です。日本で数多く出土しておりますが、これが卑弥呼がもらった鏡だという説もあります。
ただ、中国では出土されていないため、これは日本産の銅鏡だという説もあります。
弥生土器
芸術的な模様の縄文土器と比較すると、弥生土器はシンプルです。
鉄剣
弥生時代の後期になると、鉄器が登場します。錆がなく綺麗ですが、こちらは複製品です。
弥生時代の鉄器は主に九州で出土しております。その辺りが邪馬台国九州説の根拠のひとつとなっておりますが、それは青銅よりも鉄の武器のほうが強いと考えられているからです。
個人的には、鉄の武器の軍隊と青銅器の軍隊が戦って、鉄器の軍隊のほうが絶対に強いとは思いません。
鉄のほうが多少は有利ではあるかもしれませんが、青銅器でも殺傷能力は十分ありますし、鉄の武器で青銅器を破壊できるというわけではないですからね。あくまで、軍隊の数は装備の数、兵の訓練度などのほうが勝敗に影響するのではないでしょうか。
簡単に言えば、同じような強さの人が3対1で、3が青銅器、1が鉄器で戦ったら、どちらか強いかってことです。
古代の沖ノ島
4世紀から9世紀にかけての沖ノ島(おきのしま)の特設コーナーが設置されております。
沖ノ島というと千葉県館山市にもありますが、こちらは島根県にある沖ノ島です。島根県には同じ読み方の隠岐の島もあるので、間違えないようにしてください。
ちなみに後醍醐天皇が島流しにされたのは隠岐の島のほうです。
沖ノ島は小さな島で世界遺産にも指定されているのですが、一般人は島に入ることはできません。古代から今も神聖な祭祀の場所となっていて、謎のベールに包まれております。
沖ノ島の祭場で、土器や銅鏡が発見されたときの再現模型などが展示されております。
奈良時代
古代の最後を飾るのが、平城京に都があった奈良時代です。「なんと見事な平城京(710年)」から、「泣くよウグイス平安京(794年)」の間です。
平城京
平城京は塀で囲まれており、芥川龍之介の小説で有名な羅城門が入り口となっていて、そこから朱雀門に向かって、まっすぐに朱雀大路という非常に道幅の広い大通りが通っておりました。
朱雀門の先には天皇のいる平城宮があります。
こちらが平城京の復元図です。
平城京の入り口である羅城門は現在は残っておりませんが、歴博で復元模型を見ることができます。
羅城門のあった場所は現在は公園となっており、跡地には石碑が立っております。
画像提供元:京都フリー写真素材
平城京跡は現在、着々と整備が進められており、観光することができます。
こちらは以前に平城京跡で撮った写真ですが、朱雀大路から朱雀門を写しております。これを見ても朱雀大路の広大さがわかると思います。
朱雀門は1998年に復元され、朱雀大路を挟んで両脇にお土産屋や資料館がある朱雀門ひろばは2018年に開園されました。
朱雀門の先には、天皇が儀式を行っていた大黒殿が復元されております。
多賀城
こちらは奈良時代の宮城県にあった多賀城の模型です。平城京のように塀で囲まれておりますが、中身はスカスカなのが印象的です。
奈良時代には大和朝廷はまだ全国支配をできておりませんでした。東北には蝦夷(えみし)と呼ばれる朝廷の支配下にない人々が住んでいました。
宮城県にあった多賀城は蝦夷を支配するための軍事拠点となっておりました。初代の征夷大将軍として坂上田村麻呂が有名ですが、征夷大将軍というのは元々は蝦夷を討伐するための役職でした。
都から東北までは距離があるため、まめに連絡を取ることは困難です。そのため、征夷大将軍には徴税や徴兵などの、それまで天皇しか持っていなかった特権が与えられました。この特権に目をつけたのが後に征夷大将軍となった源頼朝です。
休憩所
第一展示室(先史・古代)を見終えると、第二展示室(中世)へ続く通路があります。人によっては第一展示室だけでもかなりの時間がかかってしまい、疲れて休みたくなることでしょう。
通路の途中にはトイレや休憩所があります。第二展示室(中世)から第三展示室(近世)へ行く通路にも同様にあります。
こちらが休憩所です。
自動販売機を置いてあって、飲み物を飲むことができますが、食事は駄目です。
筆者はコンビニでおにぎりを買っていたので、中庭にあるベンチで食べました。
まとめ
国立歴史民俗博物館の第一展示室(先史・古代)の見どころについてレポートしてきましたが、いかがでしたでしょうか。
すべてを紹介しているわけではないですが、行ったことがない人には、その展示物の多さにびっくりしているかも知れません。
国立歴史民俗博物館はこのほかにも中世と近世の展示室などがあります。歴史が好きな方、歴史を学びたい方、または子供に歴史の興味を持ってもらいたい方など、ぜひ一度行ってみてください。
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