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坂本龍馬の墓は高知ではなくなぜ京都?遺骨は収められている?

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坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓

坂本龍馬といえば、日本人なら誰もが知る幕末の英雄です。では、この竜馬の墓がどこにあるのでしょうかという質問に応えられるでしょうか。

この質問には意外と答えられない人が多いと思います。竜馬といえば土佐出身なので、故郷の土佐のどこかにお墓もあるのではないかと考えるかもしれませんが、結論を言うと竜馬の墓は京都のある神社にあります

なぜこの神社に竜馬のお墓があるのでしょうか。偉人の墓には遺骨が入ってない場合がありますが、ここには遺骨が葬られているのでしょうか。この疑問に答えていきたいと思います。また、竜馬暗殺の真相にも迫っていきます。

坂本龍馬の墓は京都のどこにある?

坂本龍馬のお墓が京都にあるというのは概要で述べましたが、では京都のどこにあるのでしょうか。

その場所は京都の東山地区にある護国神社(ごこくじんじゃ)です。有名な清水寺に近いといえば、どの辺りなのか想像できるかもしれません。

護国神社は日本各地にありますが、この神社は国家のために殉難した人の英霊を祀るための神社です。竜馬の眠っている護国神社は正式には京都霊山護国神社といいます

竜馬の墓はなぜ高知ではなく京都?

坂本龍馬いえば土佐出身というのが有名で、お墓は高知県にあっても良い感じがします。実際、坂本家のお墓は高知にあり、竜馬の父や母、姉の乙女などが埋葬されております。では、なぜ坂本龍馬の墓は京都のこの場所なのでしょうか。

それは、この神社は明治天皇が「維新のため、国のために命を捧げた志士の魂をお祀りしよう」と建立したもので、数々の維新の志士が埋葬されているからです。ここには坂本龍馬の他にも、中岡慎太郎や木戸孝允などといった明治維新の功労者が眠っております。

京都霊山護国神社の創建は明治元年の1868年で、当初は霊山官祭招魂社と呼ばれていました。現在の名称に改称されたのは1939年のことです。

戦後はこの場所は荒れ果ててしまっていましたが、1968年に松下幸之助らが、それを見かねて整備し、現在に至ります。東大路通りから京都霊山護国神社へと続く道は「維新の道」といいますが、そこに建っている石碑は松下幸之助の直筆です

維新の道|石碑

維新の道|石碑

坂本龍馬暗殺の犯人は誰?

坂本龍馬暗殺の犯人は誰なのでしょうか。その真相に迫ってみたいと思います。

竜馬といた中岡慎太郎の証言は?

坂本龍馬は1867年に起きた近江屋事件で暗殺されました。竜馬と同じ土佐藩出身の中岡慎太郎と会談中のときの出来事でした。中岡慎太郎は重症を負っていましたが、その後は2日間生き延び、襲撃の様子について語っております。

  • 2人の男が襲い掛かってきて、1人が「こなくそ!」と斬りつけてきた。
  • 「もうよい。もうよい」と言って、刺客は去っていった。
  • 竜馬は刀を灯火にかざし「残念残念」と言っていた。
  • 竜馬は「慎太、慎太、手は利くか」と声をかけてきた。
  • 竜馬は部屋を出て、「新助(近江屋主人)医者を呼べ」といった。
  • 直後に弱々しい声で「慎太、わしは脳をやられちょるもうだめだ」と言って倒れた。

竜馬が刀を灯火にかざしたのは、刀に自分を写して頭の傷の様子を確認したのでしょうか。間もなく新時代の幕開けが見れるというところでのあっけない最後は、さぞかし無念だったことでしょう。「残念残念と」言っていたのは、自分が助からないことを悟ったからでしょうか。

死ぬ間際に中岡慎太郎の手を気にしていたのは、右手に深手を負っているのを見てのことかもしれません。慎太郎が「手は利く」と答えたそうですが、ほぼ切断状態だったそうです。

即死してもおかしくない竜馬が力を振り絞って医者を呼ぼうとしたのは、どうしても慎太郎を死なせたくなかったという強い思いが伝わってきます。

刺客の言った「こなくそ」というのは聞き慣れないかもしれませんが意味は次となります。

旧伊予国(現愛媛県)周辺の方言で、くやしい、腹立たしい、といった気持ちを表明する言い回し。(Weblio辞書)

中岡慎太郎は犯人がだれなのか正確にはわからなかったそうですが、新選組ではないかと疑っていたと言います。

新選組の人物が容疑者として束縛

伊予国の方言「こなくそ」の証言から、新選組で伊予出身の原田左之助が疑われましたが、容疑者として捕縛されたのは新選組の大石鍬次郎(おおいしくわじろう)でした。

彼は拷問により一度は自分がやったといいましたが、後に撤回して、「それは拷問から逃れるために偽証したことで、見廻組が実行したことは近藤も知っていた」と述べている。

その後、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組の今井信郎(いまいのぶお)が取り調べ最中に、自分たちが坂本龍馬を暗殺したと自白し、京都見廻組による犯行というのが定説になっております。

このとき今井は、組頭である佐々木只三郎に呼び出され、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎と自分が集って実行した。自身は見張り役で渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助が竜馬のいる二階に踏み込んだと証言しております。

しかし、今井以外の見廻組実行犯とされる人物は、近江屋事件から間もなく起こった鳥羽・伏見の戦いで戦死しており、この証言は十分に裏が取れているとは言えません。今井が自身やまだ生きている人をかばって、すでに亡くなっている人に責任をかぶせた可能性も否定できません。

近江屋跡

近江屋跡

龍馬を斬った刀が残されている?

今井の証言を元に竜馬暗殺の犯人として有力だと思われるのは小太刀の達人である桂早之助(かつらはやのすけ)です。近江屋で竜馬たちがいた部屋は天井が低く、普通の刀が使いにくい場所でした

竜馬自身も北辰一刀流の達人であり、鞘に刺さった状態で刀で応戦した痕跡がありますが、そのときに刀が天井にあたって突き破ってしまっています。

ちなみに、このとき竜馬が使用していた刀はゲームなどでも有名な陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)です。竜馬はこのとき銃を所持しておりましたが、それは使わず後ろに置いてあった刀を取りました。

ある程度広い場所なら、すかさず距離を取って、銃を打つという判断をしたのでしょうが、銃では防御ができないので、この状況ではよほど当たりどころがよく、即死させなければやられてしまいます。銃を使わなかったことを疑問視する意見もあるようですが、刀を選んだ判断は妥当かと思います。

このとき、敵の刀を受け止めた陸奥守吉行は鞘を大きく損傷して、刃の部分まで破損しております。竜馬自身の傷も頭蓋骨を通り越して脳に達していたようで、はたして小太刀でそこまでの破壊力を出せるのかはやや疑問が残ります。

ちなみに竜馬を斬ったとされる桂早之助の刀が、京都霊山護国神社の近くにある霊山歴史館に展示されています。写真撮影は禁止ですが、ネットで「龍馬を斬った小太刀」と検索すると見ることができます。

この小太刀の長さは42cm程度ですが、本当にこの刀で竜馬を斬ったというのなら、かなりの怪力の持ち主だと推測されます。

大太刀と小太刀

大太刀と小太刀

竜馬を斬ったという者が現る?

坂本龍馬暗殺事件から30年の歳月が経った時、自分は見張り役だったと言っていた元見廻組の今井信郎が、実は自分が実行犯で竜馬を斬ったと言い出しました

しかしこれは売名行為として受け止められ、有力証言としては扱われておりません。また、元見廻組の渡辺一郎(篤)も死の床で身内に対し、坂本龍馬を暗殺したのは自分であると告白しています。

結局は、防犯カメラもDNA鑑定もない当時だったので、決定的な証拠はなにもないということになります。そのためか、京都見廻組犯行説が定説であるものの、憶測が憶測を呼んでいろいろな説が今でも唱えられております。

これらを元に実行犯を考察すると?

今井信郎の証言は、変化しているので全面的に信用することはできませんが、ひとつ言えることがあります。

それは彼が捕虜として拘束された時、最も自分に有利な証言は、「しらない。俺はやっていない。」だったはずです。また次善の証言としては、「見廻組がやったと聞いているが、俺は関わっていない。」として実行犯としてすでに死んだ者だけを上げれば、適当でしょう。

しかし、彼は見廻組がやって自分も関与したと自白したことで、禁固刑になっております。

つまり、彼は他の者たちの証言などから、自分が関わっていないという誤魔化しは通用しないと判断したと考えられます。このことから通説通り、京都見廻組による犯行で今井自身も関わっていたという可能性が高いと言えるでしょう。

ただ、このときの証言は今井以外の実行犯は皆すでに亡くなっていたなど、彼にとって都合のいい点もあり、全面的には信用できないでしょう。また二階に上がって襲撃したと答えるよりも、下で見張り役だったと答えたほうが取調官への明らかに印象はよいので、この供述も宛にはなりません。

竜馬たちを襲撃したのは、部屋の狭さや天井の低さなどを考えると、小太刀使いというのが合理的です。見廻組頭の佐々木只三郎も小太刀の達人ですが、彼が竜馬襲撃役だった可能性は低いと考えます。

なぜなら竜馬は剣豪であり、しかも銃を持っているのはわかっていたはずです。もしも部屋に入る前に竜馬が危険を察知していたら、入った瞬間に返り討ちにあってしまうリスクもあるのに、組頭自らがあえて危険な橋を渡る合理性はありません。

組頭にもしものことがあったら一大事で、組の存続などにも影響を与えてしまいます。このため、竜馬のいる2階には上がったかもしれませんが、その場合は先に部下に襲撃させて、自身は後ろで控えていたと考えるのが妥当です。

竜馬暗殺の指示は佐々木只三郎が出したというのが定説ですが、彼自身の判断だったのか、その上で誰かが指示を出していたのかはわかりません。今井は後にあれは「暗殺ではなく幕府の命令による職務であった」と語ったと言います。

京都霊山護国神社の見どころは?

それでは坂本龍馬のお墓がある京都霊山護国神社の見どころを紹介します。

拝殿

こちらの拝殿は1929年に建てられました。前年に昭和天皇の即位の礼が京都御所で行われましたが、そのときに使用した建物を移設したものだそうです。

京都霊山護国神社|拝殿

京都霊山護国神社|拝殿

吉村虎太郎の墓

尊皇攘夷派の武装集団・天誅組の吉村虎太郎のお墓です。竜馬と同じ土佐藩出身で武市半平太から剣術を学びました。

吉村虎太郎の墓

吉村虎太郎の墓

坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像

坂本龍馬と中岡慎太郎が並んだ銅像が建っております。少しわかりにくいのですが、この銅像の隣りにあるのが坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。

坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像

坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像

坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓

近江屋事件で襲われた坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。ここにあるお墓はほとんどが遺骨は入っていないようですが、この二人についてはこの場所に遺骨が埋葬されています。

このお墓は意外と目立たないので、だいぶ探し回ってしまいました。このお墓目的で来る方が多いのでしょうが、初めてお参りに行く方は、二人の銅像の向かって左隣と覚えておくとよいと思います。

坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓

坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓

墓碑の字は桂小五郎こと木戸孝允のものだそうです。文字は消えかかっていますが、左上には坂本と書いてあるのが読み取れます。

坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓

坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓

木戸孝允のお墓

一番上にあって別格的な存在なのが、木戸孝允のお墓です。彼はこの神社の創建にも尽力を尽くしたそうです。

墓碑には正二位と刻まれていますが、これは位階といって国家の制度に基づく個人の序列の標示で、正一位、従一位についで3番目に高いものです。歴史的な有名人物だと源頼朝も正二位(しょうにい)です。

ちなみに坂本龍馬は正四位(しょうしい)です。最後に最高位である正一位に指名されたのは織田信長で、その後は事実上、従一位が最高位となっております。

木戸孝允のお墓

木戸孝允のお墓

まとめ

幕末の英雄・坂本龍馬が眠る京都霊山護国神社の見どころなどについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。

坂本龍馬が故郷の高知ではなく、京都にあるこの場所に葬られている理由は、この場所が明治維新の志士たちを祀るために作られたからでしたね。ここにある殆どのお墓には遺骨は収まっていませんが、坂本龍馬と中岡慎太郎については、遺骨が入っております。

坂本龍馬暗殺の真相にも迫ってみましたが、科学が未発達だった時代であり、残念ながら確証まではされていないというのが現実です。

実は暗殺犯のターゲットは中岡慎太郎だったとか、実は犯人は中岡だったなど、いろいろな説が唱えられ、幕末のミステリーとなっております。興味のあるかたはネットで「坂本龍馬暗殺」などで検索してみると、とにかくたくさんの説があることがわかります。

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