神奈川県の鎌倉といえば鎌倉幕府発祥の地であり、鶴岡八幡宮や建長寺、頼朝の墓など観光スポットも多くあります。
そんな鎌倉ですが幕府滅亡後、ある悲劇的な出来事が起こりました。犠牲となったのは、皇族でありながら倒幕のために戦い続けた護良親王です。
なぜ倒幕の功労者であるはずの護良親王が、あまりにも酷い仕打ちを受けて、最後を迎えなければいけなかったのでしょうか。護良親王がどういう人物なのかを解説し、どのような最後を迎えたのか、また鎌倉にあるその悲劇の地について紹介したいと思います。
護良親王ってどんな人?
護良親王がどんな人なのか、その生涯について簡単に解説したいと思います。
護良親王は建武の新政で有名な後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府軍と倒幕軍が戦った元弘の乱で功績を上げました。建武の新政というのは、それまで武家中心(鎌倉幕府)だった政治を改革して、天皇を中心とする新たな政治のことをいいます。
比叡山の天台座主になる
護良親王は6歳のときに比叡山延暦寺に入れられました。これは後醍醐天皇が僧兵のいる比叡山と関係を築きたかったからだと言われます。護良親王は一を聞いて十を知るといった具合に非常に物分りがよく、かなり期待されていたようです。
護良親王は20歳のときに、比叡山で最高の位である天台座主になりました。自分の運命を知っていたのか、武術に関心があり、僧兵らと鍛錬に励んでいたといいます。
元弘の乱に加わる
1331年に後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐のため元弘の乱を起こしますが、護良親王も僧兵などを引き連れてこれに加わります。
しかし、この戦いで後醍醐天皇は幕府から派遣された足利尊氏らの活躍もあって捕らえられ、隠岐の島へと流されてしまいます。護良親王はその後も楠木正成らと共に倒幕活動を続けます。
村上義光が身代わりに
1333年、護良親王は吉野(奈良県南部)で幕府軍と戦いますが(吉野城の戦い)劣勢となり、自身も矢を7本も受けてしまいます。もはやこれまでと自害を決意しますが、家臣である村上義光が身代わりを引き受けると嘆願します。
義光は護良親王の甲冑を着て自害しますが、護良親王はその隙になんとか高野山に逃げ延びることができました。一方、幕府軍は大阪の千早城に籠城する楠木正成も攻めますが(千早城の戦い)、正成は大軍相手に奮闘し、こちらはかなり苦戦します。
正成の奮闘に反幕府勢力は勢いづき、参加する者たちも次々と現れました。高野山に落ち延びた護良親王の元にも兵が集まり、親王の軍は敵の補給を遮断するなどして正成を援護します。
そして護良親王らは京都にある幕府の出先機関・六波羅探題を何度か攻めますが、なかなかうまくいかずに敗走を繰り返します。倒幕軍にとって六波羅探題はどうしても落としておきたい重要拠点でした。
鎌倉幕府の滅亡
護良親王らが六波羅探題攻略に手こずっている最中、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出して再び挙兵します。幕府も当然黙ってはおらず、足利尊氏を派遣してこれを鎮めようとします。
しかし、尊氏は反旗を翻し、六波羅探題を攻めてこれを落とします。ほぼ同時に護良親王の呼びかけに応じ、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め込みます。義貞の軍は当初は少なかったものの、幕府に不満のあった関東の武士たちが次々と義貞軍に加わり、鎌倉幕府は滅亡しました。
足利尊氏と対立
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、倒幕の功労者の足利尊氏と護良親王は対立するにようになります。二人共、征夷大将軍になることを望みますが、自身に権力を集中させたい後醍醐天皇は難色を示します。
しかし、武士を征夷大将軍にして再び武家政権ができるよりはマシと考えた後醍醐天皇は、護良親王を征夷大将軍に任命します。
尊氏は護良親王に対抗するために後醍醐天皇の側室で寵愛を受けている阿野廉子に接近します。阿野廉子は自分の子を天皇にしたかったので、ライバルとなる護良親王は邪魔な存在でした。尊氏は阿野廉子を通じて護良親王に謀反の疑いがあると後醍醐天皇に吹き込み、失脚にさせることに成功します。
護良親王の兵は多種多様で僧兵の他に浪人や乞食などもいましたが、この中の乱暴者たちがいろいろと問題を起こしていたことも尊氏にとってプラスに働いたようです。
護良親王は征夷大将軍を解任され、鎌倉にいた尊氏の弟・直義の監視下に置かれることになりました。
護良親王失脚の別説
通説では護良親王の失脚は阿野廉子によるものでしたが、別の説もあります。梅松論という歴史書によると、尊氏の力を恐れた後醍醐天皇は尊氏を討つ計画を立てていたが、なかなか実行に至らないことに業を煮やした護良親王は尊氏討伐の兵を集めました。
これについて尊氏は後醍醐天皇を問い詰めますが、「これは親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と答え、親王の身柄を尊氏に差し出したといいます。
後醍醐天皇は武士が権力を握ることを嫌がり、尊氏を警戒していたので、この説はそれなりに可能性がありそうです。
護良親王の最後
護良親王は鎌倉で土牢に幽閉されていたといいます。そして幽閉されてから9ヶ月が経過したとき、北条の残党が反乱を起こします。
ドサクサに紛れて親王が逃げ出すことを警戒したのか、親王と北条の残党が結託することを嫌がったのか、足利直義は家臣の淵辺義博に親王を葬り去れと命令します。義博は土牢に入り、太刀で喉を刺そうとすると、護良親王は剣先を噛んで刀を折ったといいます。
激しい格闘の末、ようやく親王の首を取った義博は土牢の外に出てその首を見たとき、恐ろしい形相をしていたので、思わず投げ捨ててしまったといいます。このとき護良親王は28歳で、倒幕の功労者なのに悲惨な最後でした。
護良親王の墓は、その最期の地の近くにありますが、首は妃である雛鶴姫が拾って、鎌倉から持ち出したと伝わります。
護良親王と懐良親王の違いは?
後醍醐天皇の皇子には護良親王の他にも有名な懐良親王という人がいて、混乱する方もいるようです。懐良親王は護良親王の弟ですが、年齢は20歳ぐらい離れております。
懐良親王は後醍醐天皇から九州の統治するため征西大将軍に任命されますが、懐良親王も護良親王と同じく戦う親王であり、筑後川の戦い(1359年)などで活躍しました。懐良親王はこの戦いで大宰府を制圧し、九州を統一を果たします。
そして日本の国王と表して明との貿易を行いますが、後に室町幕府三代将軍・足利義満が民に使者を送ったところ、「日本の国王は懐良親王であり、その臣下とは貿易できない」と言われたというエピソードがあります。
護良親王を祀る鎌倉宮とは?
鎌倉には護良親王が幽閉されていたと伝わる場所があります。1869年に明治天皇はその場所に護良親王を祀る鎌倉宮を創建しました。
護良親王は比叡山の大塔にいたことから、大塔宮と呼ばれることがありましたが、この神社はそれにちなんで大塔宮と呼ばれることもあります。
土牢
鎌倉宮の奥には護良親王が9ヶ月幽閉されていたと伝わる土牢があります。天井も床も壁もすべてが土でできております。中はとても暗く、カメラに付属するノーマルなフラッシュではまともに写真を取ることはできませんでした。
広さは8畳あるといいますが、この中で過ごしていたら気が狂いそうです。本当に皇子がこんなところで何ヶ月も過ごしていたとしたら、ちょっと残酷すぎる感じがます。
後醍醐天皇は息子が、このような扱いを受けていることを知っていたのでしょうか。ただし、護良親王がここに幽閉されたいたかどうかは、異論もあります。土牢といっても土蔵造りの建物だったのではないかとも言われています。
鎌倉宮のアクセス方法は?
鎌倉宮のアクセス方法ですが、最寄り駅はJR鎌倉駅となります。そこから距離は2キロ程度なので徒歩で行くことも可能です。途中には有名な鶴岡八幡宮や、北条氏最後のち宝戒寺、源頼朝の墓などの見どころもあります。
鎌倉駅からバスも出ております。「鎌倉宮行き」に乗り、終点まで行きます。
鳥居の先には無料の駐車場もあるので、車で行くことも可能です。ちなみにそれほどスペースはなく、バスは入れません。
まとめ
護良親王がどんな人なのかについて解説し、悲劇の最期の地とされる鎌倉宮について紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
親王はわずか28歳という短い人生でしたが、皇族でありながら戦いに明け暮れ、鎌倉幕府を倒すために生まれてきたといったような生涯でしたね。
暗い土牢で9ヶ月も幽閉したともいわれ、激しく抵抗するも殺害されてしまうという衝撃的な最後でしたが、山梨県都留市朝日馬場の石船神社には、護良親王の首と伝わる頭蓋骨が祀られております。
藪に捨てられた親王の首は妃である雛鶴姫によって拾われ、山梨県まで運ばれたと伝わっております。頭蓋骨には金箔が塗られ、まるでミイラのようです。過酷な道のりのせいなのか、雛鶴姫も道中に命を落としてしまい、その場所は雛鶴姫を祀る雛鶴神社となっております。
- 護良親王は建武の新政で有名な後醍醐天皇の皇子。
- 比叡山に入り、最高の位である天台座主になる。
- 元弘の乱で倒幕のために自ら戦う。
- 倒幕後は足利尊氏と対立するようになる。
- 対立に破れ失脚し、鎌倉で幽閉される。場所は現在の鎌倉宮。
- 尊氏の弟・直義の命によって悲劇的な最後を迎える。
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