本日はJR北鎌倉駅で降りて、鎌倉を歩いて廻ってみたいと思います。
北鎌倉駅から歩いて天園ハイキングコースの入り口がある建長寺に行って、鎌倉の山をハイキングをしたいと思います。最後には有名な鶴岡八幡宮で締める予定です。
では、鎌倉の見どころについてレポートしていきたいと思います。
北鎌倉駅は東京から横須賀線で1時間弱いったところにあります。
円覚寺
北鎌倉の駅のすぐ前の前には、円覚寺があります。
円覚寺は1282年(鎌倉時代)に鎌倉幕府第8代執権の北条時宗が元寇の戦没者を追悼するために創建したお寺です。
日本の武士だけでなく、モンゴルや高麗の兵士も供養されているといいます。憎き敵のはずですが、このあたりは、「亡くなったら皆仏」のといったような当時の日本の精神を感じますね。
1268年、フビライ・ハーンが率いる元のから服従を迫る文章を受け取ったとき、時宗はまだ17歳でした。この最悪のタイミングで時宗は執権に就任します。
2度に渡る元寇は
- 文永の役(ぶんえいのえき)が1274年
- 弘安の役(こうかんのえき)が1281年
なので、弘安の役の翌年に円覚寺が創建されたということになります。
円覚寺の洪鐘(おおがね)は国宝に指定されております。この鐘は北条時宗の息子である北条貞時が国家安泰を祈って鋳造させたものです。
円覚寺の中は庭園や池もあって、なかなか広いです。いろいろと廻っていたら、1時間ぐらいかかりました。
次は天園ハイキングコースの入口である建長寺に向かおうと思います。円覚寺からの距離は約1キロです。
建長寺
建長寺は1253年に鎌倉幕府の第5代執権、北条時頼によって創建されました。
建長寺の隣には立派な学校があります。中学校と高校がいっしょになっております。校舎は非常に新しい感じがしますが、1921年に建長寺の支援を受けて、創立したといいます。
境内図を見ると建長寺の中は、かなり広そうです。
春のシーズン、建長寺では、綺麗な桜を見ることができます。
桜の道を通り抜けると、三門があります。
三門の先には仏殿があります。仏殿の中には木でできた仏像が飾られています。
桜が鮮やかです。
天園ハイキングコースの入り口は、建長寺の奥にある半僧坊の先にあります。半僧坊に行くには手前に245段の階段があります。
ひたすら階段を上がっていき、ようやく半僧坊らしき建物が見えてきました。脇にある像は烏天狗ですかね。
半僧坊の近くには富士見台があります。
天気がよければ、このように富士山が見えるそうですが、今日はどうでしょうか。
一応、晴れてはいますが、残念ながら富士山は見えませんね。
天園ハイキングコース・鎌倉アルプス
半僧坊の近くには天園ハイキングコースの入り口があります。
半僧坊まできつい階段を登ってきましたが、天園ハイキングコースに行くには、さらに階段を上る必要があります。
だいぶ上まで登ってきましたね。建長寺がかなり小さく見えます。このあたりは鎌倉アルプスとも呼ばれているようです。
分かれ道がありました。通常、天園ハイキングコースといえば、瑞泉寺(ずいせんじ)のほうに行くようですが、今回は距離の短い覚園寺(かくおんじ)方面へ向かいたいと思います。
半僧坊からの距離は次のとおりです。
- 瑞泉寺:約3.9キロ
- 覚園寺:約1.6キロ
覚園寺
天園ハイキングコースを進んでいくと、覚園寺の門が見えてきました。
覚園寺は1218年に第2代執権の北条義時が戌神将(伐折羅大将)のお告げによって、ここに薬師堂を建てました。その建物が覚園寺の起源とされております。
戌神将は金剛力士とも呼ばれます。この呼び方のほうがご存知の方が多いかもしれません。
本殿の薬師堂です。割と新しい建物の印象を受けます。覚園寺は1830年の火災で大部分を失ってしまったそうです。また、1923年の関東大震災でも大きな損害が出たので、その後に復権したそうです。
円覚寺と建長寺は非常に広いお寺でしたが、この覚園寺は小さなお寺です。
鎌倉宮
覚園寺から500メートルほど離れたところには、鎌倉宮(かまくらぐう)があります。
鎌倉宮は建武の新政を行った後醍醐天皇の息子、護良親王(もりよししんのう)を主祭神とする神社です。1869年に明治天皇の命によって作られました。
そして明治天皇は自ら、ここに足を運んでいます。護良親王に対して強い思い入れがあったようです。
鎌倉宮の奥には護良親王が9ヶ月間幽閉されていた土牢があります。なぜ幽閉されていたのかというと、室町幕府の創設者である足利尊氏と対立したからです。
建武の新政発足後、護良親王は征夷大将軍に任命されましたが、尊氏はその地位を狙っていました。結局、後醍醐天皇は公家などを優先して、武士を軽んじていたため、尊氏を征夷大将軍に任命することはありませんでした。
護良親王ですが最後は、足利尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)の命により、この場所で暗殺されました。享年28歳という若さでした。
源頼朝の墓
鎌倉宮の近くには源頼朝の墓があります。墓は階段を上がったところにあります。
頼朝は1199年に53歳で亡くなり、この辺りにあった法華堂(ほっけどう)に葬られたといいます。
今建っている墓(供養塔)は江戸時代(1779年)に島津重豪(しまずしげひで)が建てたものです。島津家といえば、薩摩の戦国時代のイメージがあるかも知れませんが、元々は鎌倉幕府の有力な御家人でした。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は源頼朝と深い関係があるイメージがありますが、平安時代の1063年に源頼義(みなもとのよりよし)によって創建されたと言われております。
京都にある石清水八幡宮を源氏の守り神として、迎えたのが始まりです。元々は現在と別の場所にありましたが1180年に頼朝によって、この場所に移されました。
平日で他の場所には人はあまりいませんでしたが、鶴岡八幡宮には観光客が多かったです。外国人も多いので世界遺産登録されているのかと思われがちですが、過去には推薦の動きはあったものの登録はされておりません。
ちなみに参考までにこちらは以前に撮った京都の石清水八幡宮の写真です。
こちらは源義経(みなもとのよしつね)の妻である静御前(しずかごぜん)が舞を行ったと言われる舞殿(下拝殿)です。
静御前は頼朝の見ている前で夫の義経を想う舞を舞ったことで、頼朝の怒りを買ってしまいました。頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)が頼朝をなだめたと伝えられております。
鶴岡八幡宮の中には明治天皇が立ち寄った場所として碑が建てられているそうですが、そこへ行くことはできません。
鶴岡八幡宮「太鼓橋」は今はコンクリートでできていますが、元々は1182年に作られた木の橋でした。1923年の関東大震災で崩壊してしまい、その後に再建されました。
昔、この橋を通った記憶があるような気がするのですが、今は封鎖されていて通ることができません。
まとめ
北鎌倉から、天園ハイキングコースを通って、鶴岡八幡宮を廻ってみた道のりをレポートしてきました、いかがでしたでしょうか。
鎌倉は京都ほどではないにしても、古都として見どころはたくさんあります。今回ご紹介した観光スポットは一部です。
関東から京都まで行くと、日帰りでいくのは、なかなか厳しいですが、鎌倉でしたら十分、日帰りも可能です。
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