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石垣山一夜城の逸話!小田原征伐に伊達政宗が大遅刻?関東の連れ小便とは?

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石垣山一夜城からの眺め

小田原駅のすぐ近くにある小田原城は、「日本100名城」にも指定されていて有名ですが、そこから数キロ離れた場所にある石垣山城は意外と知られていないかも知れません。

この石垣山城ですが、平成29年に「日本100名城」に選定されましたが、まだまだ知名度不足のようであり、アクセスの悪さもあって観光客は少ないのが特徴です。

今回は小田原から箱根登山鉄道に乗って数分のところにある入生田駅からハイキングして、石垣山城に行くことにしました。ハイキングの様子や石垣山一夜城歴史公園の見どころなどについてレポートをしてみたいと思います。

石垣山城は観光地としての知名度は低いかも知れませんが、秀吉と伊達政宗のエピソードや秀吉と徳川家康の逸話が伝えらている舞台ともなっています。その辺りの逸話などについても紹介していきたいと思いますので、ご興味のある方はぜひ見て言ってください。

石垣山一夜城歴史公園ってどんなところ?

歴史にあまり興味のない方たちにはあまり知られていないと思いますが、石垣山一夜城歴史公園はどんなところなのか、簡単に説明したいと思います。

石垣山は神奈川県小田原市にある山ですが、標高は261.9メートルあります。かつてここには城がありましたが、今では崩れた石垣がところどころ残っている程度です。

この石垣山城は豊臣秀吉が1590年に北条氏の本拠地である小田原城攻略(小田原征伐)のために作った城です。小田原城からは約3キロ離れていて、高地から見下ろす位置にあります。

なぜ一夜城って呼ばれるの?

この城の名前は石垣山城でよさそうですが、なぜ石垣山一夜城と呼ばれることが多いのでしょうか。

それは小田原征伐でこの城は小田原城から見えないように、木々に隠れるようにこっそりと構築しましたが、完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに城を築いたように見せかけたためです。

小田原城に籠城していた北条氏は突如出現した、この城を見て戦意を喪失し、降伏に至ったといいます。この城は太閤一夜城と呼ばれることもあります。

武田信玄も上杉謙信も落とすことができなかった難攻不落で有名な小田原城ですが、石垣山一夜城が完成後10日も立たないうちに、北条家当主の北条氏直は小田原城を出て降伏を申し出ました。

一夜で出来たように見せかけた城ですが、実際は築城に80日程度かかっています。そして小田原攻めには秀吉自ら参加していましたが、石垣山城の完成後には、秀吉の本隊が早雲寺から移ってここに滞在しました。

秀吉が小田原征伐でこの城に滞在中、淀殿や千利休が呼ばれて茶会も催されたといいます。

小田原城

小田原城

黒田官兵衛のが降伏勧告

一夜城を見て戦意を喪失したといっても、北条氏にとっては降伏すれば、命が助かる保証は全くありません。北条一族の中には部下を守るためには、喜んで命を捧げるといった人もいるかもしれませんが、北条氏全員がこのような意見を持っていることはあり得ません。

そのため、このような状況でも降伏の決断は北条氏にとっては、簡単なことではありませんでした。小田原評定という言葉がありますが、これはこのときの様子から、

多くの人が集まって相談しても結論が出ず、決定を見ないこと

出典:imidas

を意味します。北条氏への降伏勧告で活躍したのが、戦国の軍師として有名な黒田官兵衛です。NHK大河ドラマにもなっていましたね。

黒田官兵衛には過去に、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために有岡城(伊丹城)に出向きますが、捉えられてしまい、牢に1年幽閉されてしまった苦い経験があります。過去にそんな恐ろしい経験があるのに、危険な降伏勧告に乗り出すことになりました。

交渉に当たって、官兵衛は当主・北条氏直(ほうじょううじなお)の弟である氏房(うじふさ)に目をつけます。氏房は本来は岩付城が居城でしたが、岩付城はすでに落城しており、妻子が捕虜となっていました。

官兵衛は氏房に酒や肴を送ったところ、お返しの品として返ってきたのは、鉛と弾薬でした。普通に考えれば、これらの品は、まだまだ戦いは止めないという挑発のメッセージに感じますが、官兵衛はそうは考えなかったようです。

交渉が成功すると考えた官兵衛は、丸腰で小田原城に向かい、粘り強く氏直を説得しました。その結果、北条氏は降伏します。

戦う意志のない人は、降参の証として銃や刀などの武器を相手に渡したりすることがありますが、氏房のお返しの品には、そういった意味があったのかも知れません。

有岡城(伊丹城)

有岡城(伊丹城)

小田原征伐に遅刻した伊達政宗はどうなった?

秀吉と伊達政宗の有名なエピソードがありますが、舞台はこの石垣山一夜城となります。伊達政宗といえば、ゲームやアニメなどにもよく登場する片目の人気武将です。

小田原征伐のために、秀吉は伊達政宗にも出陣を要請していましたが、北条氏と良好な関係にあった正宗はなかなか動きませんでした。伊達氏と北条氏は同盟関係であったという説もあります。

出陣要請から2ヶ月以上も遅れて正宗はこの地にやってきて、秀吉に謁見も申し出ますが、怒った秀吉はなかなか会ってくれません。やっと謁見を許された正宗は白い死装束を着て、秀吉の前に登場しました。決死の覚悟だったのか、秀吉側からそうすれば会ってやると言われたのかはわかりません。

秀吉は死に装束の政宗の首に杖を押し当てて、「もう少し遅ければ、ここが飛んでいた」と言ったといいます。政宗は一部の領地を没収されましたが、一命は取り留めることが出来ました。

政宗には武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった小田原城が落ちるはずはないといった、甘い読みがあったのかも知れません。いよいよ落城が見えてきて、慌てたといったところでしょう。

このエピソードでは、ちょっとした逸話があります。正宗の遅刻について前田利家が問い詰めたとき、政宗は「利休殿に茶の湯を教えてもらいたい。」と答えたそうです。

どのような意図があったのは、あるいは単に純粋な気持ちだったのかはわかりませんが、正宗の秀吉はこの受け答えを気に入ったと言われています。政宗はこのとき20代の若者でしたが、なかなか面白いやつだなと思われたのかも知れません。

伊達政宗の像

伊達政宗の像

関東の連れ小便の逸話

石垣山一夜城を舞台として、秀吉と徳川家康のちょっとした逸話も残されております。

小田原征伐で活躍していた家康を石垣山城へ招いた秀吉は、小田原城が見下ろせる場所で並んで立ち小便をしながら、次のように語ったそうです。

「小田原城が落ちたら関東八州を与える」

このエピソードは「関東の連れ小便」と言われますが、NHK大河ドラマ「真田丸」でも、このシーンが登場しました。

この後は家康は関東に領地を移ることになります。住み慣れた土地を離れるのは複雑だったろうし、反対する部下もいたそうですが、これによって約150万石から約250万石に増えました。

家康は幼少期を過ごした駿府に城(駿府城)を作って過ごしていましたが、この領地変遷によって徳川家の城は、江戸城になりました。ただし、家康は幼少期を過ごしたこの地が気に入っていたようで、隠居するときはまた駿府城に戻ってきました。

石垣山一夜城へのアクセス方法は?

石垣山一夜城歴史公園へのアクセス方法について説明したいと思います。近くには駐車場もあるので、自家用車なら簡単に行くことができますが、その他の方法でのアクセスはあまりよいとは言えないでしょう。

バスでのアクセス方法は?

石垣山一夜城へ行くバスは休日のみ走っている小田原宿観光回遊バス「うめまる号」です。乗るためには1日フリー乗車券が必要で、小田原駅、箱根板橋駅、JR早川駅から乗車することができます。

徒歩でのアクセス方法は?

石垣山一夜城歴史公園の最寄駅はJR東海道線の早川駅なのですが、2キロ程度離れています。また、箱根登山鉄道の入生田駅からだと徒歩で3キロ程度です。

3キロといえば、たいした距離に感じない方もいるかもしれませんが、ひたすら上り坂なので、思っているよりも体力が消耗し、時間がかかってしまいます。

今回はこちらの神奈川県地域政策課が発行している資料の「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」を参考にして、入生田駅から石垣山城を通って早川駅に行くハイキングをしてみました。時間の都合などもあり、「長興山史跡巡り」のほうはしていません。

石垣山ハイキングレポート

ここからは入生田駅から石垣山一夜城までハイキングしてみたレポートをしていきます。

箱根登山鉄道の入生田駅を降りると、すぐ近くに「生命の星・地球博物館」がありますが、そちらに向かいます。生命の星・地球博物館の先には国道1号線が通っていて、さらにその先には早川という写真のような川が流れています。

その橋にかかっている太閤橋を渡って、後はひたすら坂を登っていきます。川に橋の影がありますが、こちらの写真は太閤橋の上から撮ったものです。箱根らしい絶景でした。

早川

早川

このハイキングコースの途中には早川石丁場群という観光スポットがあります。江戸城の石垣を造るための石を切り出した跡地ですが、辺りがすでに薄暗くなり始めていたので、今回はパスすることにしました。

途中に寄ってみた「生命の星・地球博物館」が思っていたよりも広く、かなりの時間を要してしまいました。次回はもっと時間に余裕を持って来たいと思います。

太閤橋から、ひたすら30分以上登り続けました。振り返って街の方を見てみると、かなり高いところまで来ていることがわかります。

石垣山からの景色

石垣山からの景色

さらに10分ぐらい進んでいくと、明らかに人工物と思われる石垣が見えてきました。

石垣山の石垣

石垣山の石垣

そこから数分進むと、やっと石垣山一夜城の入り口がありました。

石垣山一夜城

生命の星・地球博物館から石垣山一夜城までは距離にすると3キロ程度となります。

平地なら30、40分といった距離ですが、ひたすら上り坂だったので思っていたよりも苦戦しました。気持的には急いで履いたものの、疲れて立ち止まったり、水を飲んだりしていたので結局は1時間近くかかりました

ちなみに、生命の星・地球博物館からは、途中には休憩所やコンビニといったものは、一切ありません。自動販売機も石垣山一夜城に着くまでないので、もし歩いて行く場合は飲み物を持参することをおすすめします。

石垣山一夜城の見どころは?

ここから石垣山一夜城の見どころについて紹介したいと思います。平日で辺りも暗くなり始めていたこともあり、人気はほとんどありませんでした。

石垣の跡

石垣山一夜城には現在は天守閣などの建物は残っておりません。崩れかかった石垣などが所々に見られました。

石垣山一夜城

石垣山一夜城

物見台

物見台はかなり高い場所にあるので眺めはいいです。曇っていて写真ではわかりにくいですが、海が見えます。秀吉もここから小田原城を見下ろして天下統一を確信したのかも知れませんね。

この物見台は小田原城を見るために絶好の位置であり、関東の連れ小便のエピソードが本当だとしたら、舞台は恐らくはこの辺りだったのではないかと推測されます。

石垣山一夜城からの眺め

天守台跡

天守台跡がありますが、実際に天守閣があったかどうかは記録に残っておりません。個人的には、立派な天守閣があったほうが、小田原城に籠城している北条氏への心理的ダメージは大きいので、工期は短いとはいえ、作られていたのではないかと思います。

石垣山一夜城の天守台跡

石垣山一夜城の天守台跡

西曲輪跡

曲輪跡? 来た時は何の場所なのかよくわかりませんでしたが、曲輪(くるわ)は場内の区画を意味するようです。

西曲輪の他にも南曲輪、本城曲輪(本丸)、馬屋曲輪(二の丸)、井戸曲輪がありました。石垣山城の曲輪マップにつきましては、こちらの全体マップを確認してください。

石垣山一夜城の西曲輪跡

石垣山一夜城の西曲輪跡

石垣山一夜城周辺の見どころは?

石垣山一夜城歴史公園の周辺の見どころについても紹介しておきたいと思います。

一夜城ヨロイヅカファーム

石垣山一夜城のすぐ近くにある一夜城ヨロイヅカファーム(カフェ&レストラン)は、シェフの鎧塚氏が運営しております。

すでに17時を廻っており、閉まっていました。詳細についてはこちらをご確認ください。

石垣山城ヨロイヅカファーム

石垣山城ヨロイヅカファーム

生命の星・地球博物館

入生田駅の近くには「生命の星・地球博物館」があって、ここでは隕石や恐竜の化石などを見ることができます。小田急電鉄の箱根フリーパスを持っていたので、割引料金で入れるということなので寄ってみることにしました。

写真はティラノサウルスの化石です。

生命の星・地球博物館 恐竜の化石

→ 生命の星・地球博物館のホームページ

生命の星・地球博物館の中は非常に広く、膨大な展示物、ドキュメンタリーなどの上映もしていて、一日中入れるような場所です。軽く寄り道する場所としては、大きすぎる施設でした。

今回は急いで廻りましたが、そのうちまたゆっくりと見てみたいなと思いました。

まとめ

豊臣秀吉の小田原征伐について振り返り、家康とのちょっとした逸話なども紹介してきました。また、入生田駅からハイキングで石垣山一夜城歴史公園に行ってみた体験をレポートしてみましたが、いかがでしたでしょうか。

神奈川県の提示している「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」を参考にしてみましたが、このハイキングコースの所要時間2時間10分でクリアするのは、かなり厳しいのではないかと感じます。

ハイキングに慣れていて、坂道が続いても平気という方なら問題ないでしょうが、そうでない方はもう少し時間に余裕を持つことをおすすめします。

筆者も坂道を舐めすぎていて、今回は時間に余裕がなく失敗したなという感じです。個人的には、ひたすら階段が続く登山道よりも、永遠と続く坂道のほうがきつく感じました。

帰りはすっかり暗くなってしまいましたが、行きとは反対側のJR早川駅まで歩いて行きました。早川駅は電車の本数が少ないので注意してください。

  • 小田原城攻略のために1590年に作った城。
  • 平成29年に「続日本100名城」に選定。
  • 石垣山の標高は261.9メートル。
  • 一夜城と言われるが、実際は築城に80日程度要した。
  • 伊達政宗が死に装束で秀吉にあった場所。
  • 秀吉が家康に関東を与えると伝えた逸話の場所。

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