京都の東山区には方広寺という、あまり目立たない小さなお寺があります。この小さなお寺にある梵鐘が、徳川家康と豊臣秀頼が戦った「大阪冬の陣」のきっかけになったのはご存知でしょうか。
また、つい最近までこの辺りには、巨大な大仏があったのをご存知でしょうか。この大仏は創建当初は奈良の大仏を超える大きさだったといいますが、その作成には豊臣秀吉が行った有名な政策「太閤検地・刀狩り」が関わっています。
方広寺がどんなところなのか歴史的背景などを解説し、大仏と検地刀狩りの意外な関係、大阪冬の陣のきっかけになった方広寺鐘銘事件の流れなどについて説明していきたいと思います。
方広寺ってどんなところ?
方広寺がどんなところなのか、歴史的背景などを簡単に解説していきます。
方広寺は1595年に豊臣秀吉が創建したお寺です。天下人である秀吉が作った寺院にしては、小規模で質素だと思う方もいるかも知れませんが、創建当初はかなりの広い敷地で、東大寺よりも大きな大仏を安置するための大仏殿も建っていました。
東大寺の大仏は高さが「14.7m」ですが、方広寺のものは「約19m」あったとされています。大仏殿の規模は南北約90m、東西約55mだったそうですが、現存する東大寺・大仏殿の規模は幅と奥行き共に50m程度なので、面積はその2倍程度あることになります。
現在は方広寺の周辺に豊国神社、妙法院、京都国立博物館がありますが、これらも当時の方広寺の敷地内に入っており、南側は三十三間堂に隣接していました。
秀吉が創建した当時は、この寺院に方広寺という名称はなかったそうで、新大仏殿などと言われていたそうです。いつどのような経緯で方広寺と呼ばれるようになったのかはわかっておりません。
大仏殿の跡地は豊国神社の東側にあります。大仏は現在では残ってないですが、その様子は絵画で残されております。こちらの文化遺産オンラインのページで確認してみてください。
検地刀狩りと大仏が関係?
秀吉の行った政策として、有名なのは「太閤検地・刀狩り」です。学校の教科書などで習った記憶があると思いますが、この検地刀狩りがなぜか大仏の建造に関係しています。検地刀狩りと大仏の意外な関係について見ていきたいと思います。
検地というのは田畑の再測量ですが、秀吉は農民たちが耕地面積を誤魔化しているのを知っていました。彼の出自について諸説ありますが、身分が低かったというのは通説であり、農民だったとも言われています。
どういうふうに誤魔化しているのかと言うと、耕地面積を過小報告することで、年貢を実際よりも少なく抑えるというものです。不正を正すということで正当な政策ではありますが、農民からしてみれば年貢が増えることがわかっているので、怒り心頭になります。
農民が集団的に怒った場合、意外と侮ることができません。当時は農民と兵士の境界はあいまいで、時と場合によって、あるときは農民、あるときは兵士という人も多くいました。そこで秀吉が農民の反乱を防ぐために行ったのが、刀狩りです。
しかし、いきなり刀を寄こせといって、それに農民が簡単に応じるとは思えません。刀は農民におっては貴重な財産かも知れませんし、中には先祖代々伝わる技ものもあったでしょう。そこで、秀吉は次のように言ってうまく農民を説得しました。
今でこそ、そんな話は信じられるかという人も多いかと思いますが、当時としては「そういうことなら、喜んで是非収めさせていただきます。」という人は多かったことでしょう。
完成後まもなく大仏が倒壊?
1595年に方広寺の大仏が完成しましたが、その翌年の1596年に慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)が発生します。この地震のマグニチュードは7.5程度と推測されていますが、京都東山地区辺りは震度6程度の揺れがあったと思われます。
この慶長伏見地震により、なんと完成したばかりの大仏が倒壊してしまいます。このとき秀吉は次のように語ったといいます。
こう言い放つと、秀吉は大仏に向かって弓矢を放ったというエピソードが残こされています。このエピソードが真実かどうかはわかりませんが、その後、秀吉が大仏を再建することはありませんでした。
大仏の代わりに設置されたもの
秀頼によって大仏が復活
秀吉から莫大な財産を引き継いだ豊臣秀頼は、それを使って寺社の修復に力を注ぎました。秀頼が修復した寺社の数は実に85件だと言われています。
通説ではこれは家康が豊臣家の財力を削るためにやらせたとされていますが、この事業には徳川方もかなり協力しているので、両家の関係強化という目的があったという説もあります。
方広寺の再建もこの事業に含まれており、1612年には大仏が再建されます。その後は地震や落雷などによって損壊と再建が繰り返されますが、火事で1973年に最後の大仏が焼失してしまいました。
最後の大仏は上半身のみで規模が縮小されていたそうですが、つい最近まで京都に大仏があったことは意外と知られていないようです。
方広寺鐘銘事件とは?
この方広寺は歴史的事件が起こった場所として有名です。それは方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)なのですが、どういった事件なのでしょうか。
大仏開眼供養をめぐって対立が発生
方広寺の再建が完成し、1614年には大仏開眼供養が行われることになります。大仏開眼供養というのは、新しくできた大仏に目を入れて魂を注ぎ込む大切な儀式のことをいいます。
このとき江戸幕府を開いて政治の実権を握る天下人は徳川家康でしたが、豊臣家はまだまだ力を持っており、家康に服従しているというわけではありませんでした。そのような背景もあって大仏開眼供養の開催を巡って両家で対立が発生してしまいます。
大仏開眼供養は当然、再建を主導した豊臣家が主催するということになりますが、開催についての協議中に家康の側近である僧侶・天海が、開眼供養の着座順において異議を唱えます。恐らくは豊臣家を徳川家よりも上座にするような配置だったのではないかと思われます。
また、家康は大仏殿再建のための大工として中井正清(なかいまさきよ)を派遣しましたが、建築記録の札(棟札)にその名前が刻まれていないことに不満を示しました。
この両家の対立はエスカレートしていき、ついには方広寺鐘銘事件へと発展していきます。
家康、鐘銘文に不快を示す
方広寺で大仏が再建されるとともに、梵鐘(ぼんしょう)が鋳造されました。梵鐘というのは、除夜の鐘などで使われる釣られた大きな鐘のことです。
豊臣家家臣で供養責任者の片桐且元(かたぎりかつもと)は南禅寺の僧侶・文英清韓(ぶんえいせいかん)に鐘銘文(梵鐘に刻む文)を書かせました。
棟札の問題に続いて、家康はこの鐘銘文がダラダラと長いと不快を示します。さらには家康はこの銘文を解読させたところ、問題の箇所があると指摘します。
作成者の僧侶は「国家安康」は家康に対する祝意として意図的に入れたと弁明しました。恐らくは「君臣豊楽」は再建に貢献した豊臣家への祝意を示していたものだと思われます。
現代人が見れば、単なる難癖・言いがかりのような感じがしますが、東福寺や天龍寺などの有力な寺も「大御所様の名前を使うのは避けるのが道理」などと非難声明を発します。もっとも、これらのお寺が完全に中立公平だったのかどうかは疑問であり、天下人に忖度する面もあったのかと思われます。
問題となった梵鐘は現存する?
方広寺鐘銘事件で問題となった梵鐘はその後どうなったのでしょうか。天下人の家康が鐘銘文に不快を感じたなら、撤去されたと思われますが、なんと今でも現存しています。
家康はその後、いろいろとあるうちに梵鐘についてはどうでもよくなってしまったようです。このことからも、本当に不快を感じていたのは鐘銘文ではなく、豊臣家の態度だったと推測されます。
これが有名な方広寺の梵鐘ですが、徳川家康が因縁をつけて問題となった箇所は白く囲ってあります。
参考までに梵鐘の大きさや重さは次の通りで、重要文化財に指定されています。
- 総高:4.12m
- 口径:2.227m
- 重量:82.7トン
片桐且元、駿府に向かう
徳川家康ら徳川方は、どうやら大仏開眼供養の協議中の片桐且元の姿勢に対して不快を覚えたと推測されます。供養の着座順も鐘銘文も責任者は且元でした。
鐘銘事件発生後、豊臣家は弁明のため責任者の片桐且元を家康のいる駿府に派遣します。且元はなんとか家康に会おうと手を尽くしますが、家康は会ってはくれませんでした。
豊臣家は続いて淀殿の乳母である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を駿府に派遣しますが、家康はこちらは丁寧に迎えて面会しました。そして、あまり怒ってないから大丈夫といった温和な感じで、大蔵卿局を大阪城へと送り返します。豊臣家は彼女の報告を聞いて、さぞかしほっとしたことでしょう。
しかし安心もつかの間、その後、且元も大阪に戻りますが、家康から提示されたという次の3つの解決案を持ち帰ります。3つとも飲めというわけではなく、このうち1つでも採用すればいいということでした。
- 秀頼を江戸に参勤させる
- 淀殿を人質として江戸に置く
- 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
これらの案は豊臣家にとっては無理難題であり、ひとつとして飲めるものはありませんでした。大蔵卿局からの報告と大分様子が違うので、豊臣家の家臣たちは、且元が家康と内通していると疑い始めます。ついには秀頼は且元に寺に入って隠居するよう命じて、且元は大阪城を去りました。
そして大阪冬の陣へ
且元退去の報告を聞いて、家康は要求を無視されたと激怒し、出陣の準備を初めます。そして大阪冬の陣へと向かっていきますが、そのとき片桐且元は家康側について、大阪城攻撃に参加しました。
このことから実は本当に家康と内通していたのではないかと思われるかも知れませんが、そういうでもありません。且元が家康と通じていれば、大仏開眼供養も徳川家をもっと立てて、怒らすようなことはなかったのではないでしょうか。
そのずっと前から家康と且元が内通していて、トラブルを起こすためにわざと徳川方を怒らせたとも考えられなくはないですが、恐らくは豊臣家が徳川家の格下にならないようにがんばってしまったため、家康を怒らす結果になってしまったのでしょう。
豊臣家に尽くしてきたのに、この仕打ちが許せなかった。なんとしても片桐家を存続させたかったなどの理由がありそうです。
且元は豊臣家唯一の家老であり、かつては淀殿に「秀頼の親代わりとなってほしい」と頼まれたほどの人物です。そして唯一と言っていいほど、淀殿の暴走を止められる人物でもありました。もし且元が豊臣家に残っていれば、大阪冬の陣は結果は違ったものになっていたかもしれません。
方広寺へのアクセス方法は?
方広寺の最寄り駅は京阪電車「七条駅」となります。そこから徒歩で10分弱の場所にあります。市バスを使うなら、京都駅から約7分、博物館三十三間堂前で下車します。そこから方広寺までは徒歩で5分程度です。
京都駅からは1.5キロ程度の場所にあり、徒歩で行くことも可能です。時間は約20分なので、待ち時間や乗り換えなどを考慮すると、時間的にはこれが早い方法となります。
方広寺周辺の見どころは?
方広寺周辺の見どころについても、いくつか紹介しておきます。
豊国神社
豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社で、方広寺に隣接しています。ここにある宝物館には秀吉のもとと言われている歯が展示されています。
三十三間堂
平安時代に後白河上皇が建てた古い寺院です。建設資材の提供は平清盛が行いました。かつて広大な敷地だった方広寺に隣接していましたが、今は500メートルほど離れています。
豊国廟
豊臣秀吉のお墓です。方広寺から1.5キロ程度離れた山の上にあります。長い階段を登らなくては行けないので、体力に自身のない人にはおすすめできません。
まとめ
方広寺がどんなところなのかや鐘銘事件などについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。今でこそ小さなお寺ですが、かつては広い敷地で巨大な大仏殿がありました。
この寺院にある梵鐘の鐘銘文が結果的に大阪冬の陣のきっかけになってしまいましたが、梵鐘は今でも現存しております。
鐘銘文の文字列から戦にまで発展してしまうのはかなり理不尽な感じもしますが、難癖をつけて他国を攻めるのは信長や秀吉もやっていた手法です。
信長は石山本願寺に対して初めは金銭を要求するなどしていましたが、本願寺側はそれに応じていました。要求はエスカレートしていき、石山を立ち退いてくれということになって本願寺側はさすがにそれは受け入れることができず、ついには石山合戦になってしまいます。
難癖・言いがかりで争うのは現在の国会でも頻繁に行われています。それが国を二分する戦に発展することはなく、最後は選挙で決着を付けることになるのですが、当時の時代背景では決着は戦で付けるといったところなのでしょう。
- 方広寺は1595年に豊臣秀吉が創建した寺院。
- 創建時は巨大な大仏とそれを安置する大仏殿があった。
- 大仏の高さは約19mで東大寺を超える。
- 刀狩りで集めた武器が大仏の素材になった。
- 1596年の慶長伏見地震で大仏は倒壊。
- 秀頼によって大仏は1612年に再建された。
- 再建で作れらた梵鐘の鐘銘文が方広寺鐘銘事件のきっかけになる。
- 鐘銘文の問題箇所は「国家安康」と「君臣豊楽」。
- 片桐且元が持ち帰った家康の要求に豊臣家は激怒する。
- 且元は家康との内通が疑われ、大阪城から追放。
- 且元への対応に家康は激怒、大阪冬の陣へと向かう。
- 問題の梵鐘は今でも現存している。
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