観光の名所というわけではありませんが、京都の東山区にはひっそりと明智光秀の首塚が建てられております。
本能寺の変の後、最後は落ち武者狩りにあったと言われる光秀の首塚がこんなことろにあるのは、なんだか不思議な感じで、はたして慎重性があるのかと思ってしまいます。
光秀が本能寺の変を成功させた後、どうなったのかついて解説したいと思います。そして、この首塚が果たして本物なのか、できた経緯や言い伝えなども取り上げていきます。
本能寺の変の後、光秀はどうなった?
本能寺の変の後、明智光秀がどうなったのかを辿っていきたいと思います。本能寺の変について知りたいかたは、下記の記事を参考にしてください。
信長の城・安土城を奪う
本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀は、直後に信長の居城だった安土城を狙います。
安土城は蒲生賢秀(がもうかたひで)が留守を預かっていましたが、信長の妻子を守るために自らの城である日野城へと退去しました。このため、光秀はあっさりと安土城を落とすことができ、信長の持っていた財宝や武器を手に入れます。
光秀はすかさず、近くにある丹羽長秀の佐和山城、羽柴秀吉の長浜城も次々と落として、すばやく近江(滋賀)を平定します。長秀は四国攻め、秀吉は毛利攻めに出ていて留守でしたので、これらの城はもぬけの殻同然だったようです。
味方を増やそうと画策する
柴田勝家や羽柴秀吉など織田家家臣との戦闘が避けれらないとわかっていた光秀は、味方を増やそうと画策します。
光秀が特に期待していたは、大和(奈良)の筒井順慶(つついじゅんけい)と丹後(京都北部)の細川藤孝(ほそかわふじたか)・忠興(ただおき)親子でした。
順慶とは、織田家配下に加わるときに光秀が仲介するなど深い関係がありました。また、細川家とは娘のガラシャを忠興に嫁いでおり、縁戚関係でした。順慶は要請に応じる姿勢を見せますが、細川親子は「信長の死を痛み、喪に服す」と早々と拒否をしてしまいます。
光秀は諦めずにその後も細川氏に要請しますが、状況は変わりませんでした。また光秀は摂津(大阪と兵庫の一部)にいた池田恒興(いけだつねおき)にも味方についてほしいと要請します。
恒興も光秀と同様に、毛利攻めで手こずっている秀吉の援軍に向かうように信長から指示を受けていました。恒興の兵は5千程度ですが、それでも総勢2万弱の今の光秀にとっては貴重な戦力です。
ただし、恒興の母・養徳院は信長の母・養育係であり、恒興自身も信長とは幼少からの付き合いです。余程の状況に追い込まない限り、味方にするのは難しい相手といえます。
織田信孝と丹羽長秀が挙兵
信長の三男・信孝と丹羽長秀は四国攻めをするために大阪周辺に集結していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて中止し、光秀討伐へと舵を切ります。
信孝らは手始めに光秀の娘婿である津田信澄(つだのぶずみ)を襲撃して殺害しました。四国攻めに参加していた信澄は光秀と縁戚であり、本能寺の変への関与が疑われていました。
しかし結局のところ、信澄が光秀に協力していたという証拠は見つかっておらず、疑惑は事実無根だった可能性が高いと言えます。信澄は津田と名乗っているものの信長の甥であり、父は家督争いで信長に謀殺された信行(のぶゆき)です。
そういったわけもあり、元々忠誠心が疑われる立場でしたが、信長はそんな彼を信頼して重宝していました。琵琶湖周辺には光秀、秀吉、長秀といった信長の重臣たちの城がありますが、信澄もそのなかのひとつ、大溝城(おおみぞじょう)という城を所有していました。
1581年に行われた京都御馬揃え(軍事パレード)では信澄は織田信孝と同格の扱いだったといいます。信孝からしてみれば、なんで信長の息子の俺がこんなやつと同じなんだと思ったかも知れません。もっとも、四国攻めでは信孝が総大将で信澄のその下についていました。
信澄の疑惑が単なる濡れ衣だとしたら、信澄は河尻秀隆と並んで本能寺の変のとばっちりを受けて不幸になった人物だということになります。
同じ信長の家臣たちには、信行の息子という出自から、いつ裏切ってもおかしくないと、日頃から疑われていて警戒されていたのかも知れません。
頼みの筒井順慶、現れず
信孝は四国攻めのために兵を集めますが、募集条件は60歳以下など、かなり強引な寄せ集めの衆でした。
現在は60歳といえば、まだまだ元気な人も多いですが、当時としては平均寿命を遥かに超えています。こういった事情もあってか、本能寺の変の混乱で、脱走兵も多く出ていたとも言われています。
光秀は信孝と長秀を撃つために出撃しますが、勝算は十分にあると考えていたことでしょう。戦いの前に、筒井順慶が協力する姿勢を見せていたので、合流するために八幡市の南にある洞ヶ峠に陣を敷いて待ちます。
ここから順慶の居城・大和郡山城までは30キロ程度で、その気になれば一日で来れます。信孝らの兵も数十キロ圏内いますが、「来るならこい。返り討ちにしてくれる。」といったところでしょう。
しかし、待っていても順慶は一向に現れません。そのうち備中高松城で毛利氏と戦っているはずの羽柴秀吉がこちらに向かっているという知らせを受けます。
中国大返し
本能寺の変の知らせを聞いた秀吉は、毛利との和睦を急いで成立させて、「中国大返し」と呼ばれる強行軍で進軍していました。また、秀吉は光秀が頼りとする順慶と内通しており、順慶は結局、城にたてこもって静観することに決めていました。
秀吉は姫路城に向かうときは、1日で約70キロ程度進軍しております。兵士は重い武具をつけていたと考えられますが、無理して時速5キロで進んだとしても、12時間ぶっ通して60キロしか進むことはできません。
騎馬隊だけ先に進んで、歩兵は遅れてもいいので後からついて来いといった感じだったことが想像されます。秀吉は途中の城で何日か休息をとったりしていましたが、後続を待つ意味もあったのではないかと思います。
光秀が決戦場に選んだ場所
信孝と長秀だけなら何とかなったのでしょうが、秀吉が来るとなると、光秀にとって状況は変わってきます。
坂本城などに籠城するといった選択肢も考えたと思われますが、たとえそれで当分の間は凌ぐことができたとしても、今度は北陸にいる柴田勝家が来てしまうかも知れません。
光秀はできるだけ短期決戦で、かつ秀吉を破らなければならないという厳しい状況に追い込まれました。そうなると時間を要する籠城戦ではなく、野戦というとことになります。
光秀が決戦の地として選んだのは天王山と淀川に挟まれていて、狭い地形である山崎でした。淀川の周辺は湿地帯で、兵が通れるようなスペースは限られていました。数で勝ると思われる秀吉軍に、地形を利用して対抗しようと考えました。
また、無茶な進軍をした秀吉軍は、疲れ切っていて本領を発揮できないと計算していたようです。
山崎の戦い
光秀はここ山崎で、天王山と淀川の間の狭い場所を通って、縦長に伸びた秀吉軍を迎え撃つ作戦でした。また、光秀はこのとき大量の鉄砲を所持しており、それが頼みの綱だったとも言われています。
秀吉は大阪周辺にいた織田信孝、丹羽長秀、池田恒興らと合流し、光秀が布陣している山崎へと向かいます。秀吉の軍は2万~4万程度で、光秀の1万~1万6千よりも兵力は圧倒的に有利でした。
戦い当日は雨が降っており、光秀にとっては不幸にも鉄砲が使いづらい状況でした。それでも光秀軍は初めは狭い道を通ってきた秀吉軍をうまく撃退していました。秀吉軍の左翼は天王山からも進軍しますが、光秀の軍はこれを押さえて持ちこたえていました。
しかし、間もなく情勢は変化します。数で勝っていた秀吉軍の右翼(池田恒興ら)が進軍しにくいと思われた湿地帯からも押し寄せてきて、明智軍は総崩れし始めます。
戦いはわずか3時間程度で決着が付き、光秀は後方の勝龍寺城に退却します。しかし、この城では守りきれないと判断して、夜にこっそりとわずかな兵とともに抜け出して、自身の居城である坂本城へと向かいます。距離にするとおそよ30キロの命がけの旅路です。
最後は竹槍で刺された?
しかし、明智光秀が坂本城にたどり着くことは、ありませんでした。
彼は逃げている最中に、小栗栖の藪で落ち武者狩りにあって、絶命してしまいます。本能寺の変が起きたのが6月2日ですが、それから十数日後の6月13日の出来事でした。光秀を討ち取ったというのは、中村長兵衛という農民で、しかも武器は竹槍だったと言われています。
長兵衛は竹槍で脇腹を刺したとされていますが、この説には異論もあります。このとき光秀は一般的に考えれば、鎧を身に着けていたはずであり、竹槍で鎧を貫通して脇腹を刺すというのは、至難の業だと考えられるからです。
しかし、馬も通れないような道を通って、少しでも早く進むため、鎧を脱ぎ捨てていた可能性もなくはないので、なんとも言えません。また、光秀は討ち取られたというわけではなく、深い傷を追ったので最後は自害したとも言われています。
さらに武器は竹槍ではなく、錆びた鉄の槍だったという説もあります。竹の先に鉄の矛先をつけるような槍もあったようで、その可能性もあるでしょう。
ここで絶命したのは実は光秀本人ではなく、影武者だったという説もありますが、生きていれば、その後は妻子や部下が待っている坂本城に現れるはずです。状況は厳しいですが、まだ坂元城や安土城には兵が残っていたので、立て直しするチャンスも残っていました。
たとえここで撃たれたのが影武者というのが本当だったとしても、同時期に明智光秀が亡くなっているは間違いないのではないかと思います。
光秀が討ち取られたと言われる小栗栖の藪は、現在はだいぶ開発されていますが、明智藪と言われております。
明智光秀の首塚が京都にある?
小栗栖の藪で落ち武者狩りにあったという光秀ですが、その後はどうなったのでしょうか。京都の東山区に明智光秀の首塚と呼ばれるものがあります。ここにある京都市の説明書きには次のように書いてあります。
光秀は小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃して最後を遂げた。家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。(要約)
光秀は最後、家来に私の首を知恩院に届けてくれと伝えたとも言われています。
この場所には小さな神社があって、そのすぐ近くに、石で積まれた首塚があります。
首は本能寺で晒された?
光秀の首の扱いについては、別の説もあります。
当時の人の日記によると、光秀の首と胴体は信長の三男・信孝の元に届けられ、本能寺で晒されたといいます。明智藪の近くには光秀の胴体が埋められたと伝わる胴塚があり、掘り起こされて、信孝の元に送られたという説もあります。
本能寺には光秀のものだけではなく、数千にも及ぶ首が晒されて、近くの南蛮寺にいたルイス・フロイスらは、そのせいで悪臭に悩まされたと記しています。
当時の日記よると、本能寺でさらし首になった後、粟田口(京都市東山区・左京区)で首と銅をつないで晒され、その後は首塚が建てられて埋められたといいます。フロイスの記録とも一致点が多く、これらの話は慎重性が高いといえます。
この光秀の首塚は本物?
光秀の遺骸の扱いには、いろいろな説がありますが、この首塚は本物なのでしょうか。
京都市の説明書きには夜が明けてしまったため、この場所に埋めたとありますが、この場所から知恩院までは300メートル程度なので、夜が明けたからといってここで諦めるというのは可能性が低いと思います。
兵士が厳重に警備していて知恩院に近づくことができなかったのなら、それもあるでしょうが、普通ならラストスパートで知恩院に駆け込むことでしょう。ここで穴をほって埋めるより、駆け込んで住職に預けたほうが、時間的にも断然早いはずです。
ただし、この家来が埋めたエピソードに疑問はあっても、ここが光秀の首塚である可能性はあると考えます。当時の人の日記にも「首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた。」とあり、粟田口は広いのでこれだと範囲の特定は難しいですが、それがここである可能性は否定できません。
一方、この首塚は江戸時代にこの場所に移転されてきたという説もあります。いずれにしても、ここが本物の光秀の首塚で、この下に光秀が眠っているかどうかは、その可能性はあるが、わからないといったところです。
光秀の首塚へのアクセス方法は?
明智光秀の首塚の最寄り駅は地下鉄東西線・東山駅でそこから100メートル程度の場所にあります。少しだけ遠くなりますが隣の三条京阪駅や蹴上駅、京阪本線・三条駅からでも徒歩でいけます。
まとめ
本能寺の変の後の明智光秀がどうなったかを見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
最後は落ち武者狩りで農民に討たれるといった、ビックネームの戦国武将としてはあっけない惨めなものでした。しかも武器が最弱武器の代名詞ともいえる竹槍だったとしたら、さらに悲惨です。
当時は落ち武者狩りでは頻繁に行われていたらしく、本能寺の変のときに大阪にいた徳川家康も落ち武者狩りのリスクを追いながら、必死に三河に逃げ帰りました(神君伊賀越え)。このとき家康と別行動をとっていた配下の穴山梅雪は、落ち武者狩りにあって命を落としています。
ちなみに信長も金ヶ崎の戦いで浅井・朝倉氏に挟み撃ちになったとき、わずかな兵とともに命からがらの「朽木越え」したとも言われています。
本能寺の変の一連の流れを見ていくと、光秀は信長を倒したあとのことはあまり慎重に考えていなかったような感じがします。強力な協力者も現れず、周辺の武将は光秀の置かれている厳しい状況がよくわかっていたようです。
とりあえずは信長さえ倒すことができれば満足だったのか、あるいは自分はどんな状況でも臨機応変に対応できるといった自信があったのか、それとも天性の楽観的な性格なのかよくわかりませんが、いずれにしても、本能寺の変の後はあまり熟考した計画ではなかったと思われます。
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