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小田原城ってどんなところ?難攻不落なのはなぜ?見どころは?

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小田原城

小田原駅からはお城が見えますが、これは難攻不落として知られた小田原城です。この城にはどのような歴史があって、なぜ難攻不落といわれるのかご存知でしょうか。

この城は戦国時代、あの上杉謙信や武田信玄に攻められることがありましたが、持ちこたえることができました。上杉謙信の小田原攻めのときは、10万という大軍だったにもかかわらずです。

小田急の箱根フリーパスは小田原も自由乗り降り区間にはいっております。箱根には何回も言っているので、今回はこれを使って小田原駅の周辺を廻ってみることにしました。

小田原城のすぐ近くには、そのすぐとなりには尊徳二宮神社があります。小田原城の歴史や見どころなどを紹介し、なぜ難攻不落なのかについて解説したいと思います。

小田原城ってどんなところ?

この小田原城ですが、どんなところなのかご存知でしょうか?

小田原城と言えば、かつては戦国大名の北条氏の居城でした。いつ築城されたのかは明らかにはなっていませんが、室町時代にこの辺り一帯を支配していた大森頼春(おおもり よりはる)が、現在の県立小田原高等学校付近の高台に築いた山城が前身と言われています。

小田原城が北条家の城となったのはいつ?

この小田原城が北条家の城となったのは、1495年に北条早雲が謀略により奪取してからです。

早雲は駿河の今川氏親(いまがわうじちか)に仕えていた一家臣に過ぎませんでしたが、伊豆を制圧して一国の主となり、次は相模の国(神奈川県)を狙っていました。早雲はまさに下剋上のパイオニア的存在です。

早雲が奪取する前は小田原城の城主は大森藤頼(おおもりふじより)でしたが、早雲は藤頼に贈り物を送り続け、次第に信頼されるようになりました。

頃合いを見て、北条早雲は藤頼に、我々の勢子(せこ)が鹿を追っていたら小田原城に逃げ込んでしまったので、入場させてほしいと要請しました。勢子というのは猟を行う集団のことをいいます。

早雲を信頼していた藤頼はは、警戒もしないで、あっさりとこの申し出を受け入れてしまいますが、実はこの勢子は早雲の兵が化けていたものでした。不意をつかれた小田原城はあっさりと早雲に奪われてしまいます。

早雲はこのとき64歳でしたが、88歳まで生きました。この年まで生きるのは今でこそ珍しくはないですが、当時としては信じられないくらいの長寿です。

小田原城が難攻不落なのはなぜ?

小田原城は難攻不落の城として有名で、かつては武田信玄や上杉謙信といった強力な武将たちを退けました。では、なぜ難攻不落だったのでしょうか?

難攻不落の理由は堀で囲まれた城下で食糧生産ができるため、長期戦になっても持ちこたえることができたからだと言われております。

上杉謙信は1560年に約10万の大群でこの城を攻めましたが、城主の北条氏康は激しく抵抗して長期化し、次第に兵たちの不満が溜まっていきます。そして1⃣ヶ月ほどで城の攻略を諦めました。

このとき上杉謙信は鉄砲の射程距離に入って座り込んで酒を飲みだし、氏康を挑発したという逸話がありますが、史実かどうかは定かではありません。

1569年には今度は小田原城は武田信玄に攻められます。信玄の兵力は2万で、さすがにこれでは難しいと言えるでしょう。信玄は城下を放火するなどして挑発しますが、北条氏康、氏政親子は、微動だにしません。

わずか数日は信玄は、諦めて引き返しますが、北条氏の追撃を受けてしまいます。この当時は2万といったら、かなりの兵力です。同時期に起こった姉川の戦い(1570年)で、織田・徳川連合軍の兵力はやはり2万程度でした。

それを考えると、この小田原城はいかに難攻不落だったのかよくわかります。

小田原城の模型

小田原城の模型

小田原城を落とした秀吉のトリックとは?

難攻不落とされたこの小田原城もついに落城する日が来てしまいます。1590年のことでした。

天下統一を目前としていた豊臣秀吉にも北条氏はこの城にたてこもって抵抗しましたが、最後は突如姿を表した石垣山一夜城に驚いて戦意を喪失してしまい、降伏したとされています。

これは、小田原城から木々で見えないように城を築城し、完成後は周りの木々を伐採して、突如城が現れたように見せる秀吉のトリックでした。

もっとも、このときの秀吉の兵力は20万で、小田原城以外の北条氏の城はほぼ落城しており、頼みの綱の伊達政宗も秀吉に屈服と、かなり絶望的な状態でした。一夜城のトリックは、絶望状態だった北条氏に駄目押ししたといった感じです。

石垣山一夜城については現在は公園として整備されていますが、別記事で紹介したいと思います。

小田原城以外で難攻不落の城は?

この際ですので、小田原城以外の難攻不落の城についても簡単に紹介したいと思います。

大阪城

難攻不落としてまず挙げられるのは、豊臣秀吉の築いた城である大阪城でしょう。大阪冬の陣では徳川家康の軍は約20万の軍勢で、この城を攻めました。城を包囲して南から攻めますが、そこにあった砦(真田丸)を攻略することができずに手痛いダメージをくらってしまいます。

力攻めを諦めた家康は、夜に大声を出して豊臣方を寝かせないようにしたり、城の中に大砲を撃ったりと、心理戦に望みます。この作戦がうまくいき、家康に有利な条件で和睦が結ばれました。

和睦の条件は真田丸の取り壊し、堀の埋め立て、二の丸・三の丸の破壊などでした。城としてのまともな機能を失った大阪城は、それから数カ月後の大阪夏の陣で落城し、豊臣家は滅亡しました。

大阪城

大阪城

上田城

もう一つ、難攻不落として有名なのは長野県にある上田城です。上田城は大阪冬の陣・夏の陣で活躍した真田信繁(幸村)の父・真田信繁(幸村)の父・真田昌幸(さながまさゆき)の築いた城です。

1585年に徳川家康はこの城を攻めますが、撃退されてしまいます。このとき、徳川軍は7千に対し、真田軍は2千程度でした。

また、1600年には関ヶ原の戦いが起こりますが、戦場に向かう秀忠軍3万8千を、真田軍はこの上田城で足止めします。秀忠軍はなかなか城を攻略できず、うまく足止めされてしまい、手痛いダメージも食らってしまいます。

家康から「上田城を攻めなくていい」といった旨の連絡が届いて、急いで関ヶ原にかけつけますが、秀忠が到着したときには、すでに勝敗は決していました。上田城が1日であっさりと落城していたら、もしかしたら、秀忠が間に合っていたかもしれません。

上田城の場合は、もちろん難攻不落となる工夫はあったのでしょうが、どちらかというと城の設備が優れていたというより城主の真田昌幸が優れていたといったところでしょう。領土の少ない弱小勢力であった真田氏に小田原城や大阪城のような立派な設備の城を作るほどの財力があるとは思えません。

上田城

上田城

熊本城

熊本県熊本市中央区にある熊本城も難攻不落として知られる城です。この城は1606年に築城の名手と言われていた加藤清正(かとうきよまさ)によって建てられました。

熊本城の石垣は、敵が攻めて来ても登れないように上に行く程急勾配で反り返った設計になっております。この手法は「武者返し」と呼ばれますが、安土城などを手掛けた名工集団の穴太衆(あのうしゅう)を近江から呼び寄せて作らせたといいます

この城の広さはは東京ドーム約20個分を誇り、場内には120箇所もの井戸があって、長期間の籠城にも耐えられるように工夫されていました。難攻不落と思われたこの城が戦火にあったのは、築城から270年経過した西南戦争(1877年)のときでした。

熊本城は政府軍の拠点となり、西郷隆盛率いる薩摩軍が攻めますが、落とすことはできませんでした。清正の力作であるこの城が難攻不落というのがようやく証明されました。そのとき隆盛はわしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだと言い残したといいます。

熊本城

熊本城

小田原城の見どころは?

さてここからは小田原城の見どころについて紹介したいと思います。現在の場内マップにつきましては公式ページを確認してください。

天守閣

天守閣の見た目は比較的きれいですが、小田原城は2016年の5月に天守閣の改修が完了しております。

小田原城は明治維新後の1870年に廃城となり、そのときにほとんどの建物は解体されてしまいました。現在の天守閣が再建されたのは1960年で、昭和になってからです。

天守閣の中は資料館(有料)になっており、ビデオなども放映されております。最上階は展望台となっており、小田原の街や箱根の山などが一望できます。

小田原城の天守閣

小田原城の天守閣

こちらの景色は天守閣の展望台から見た箱根の山々ですが、ちょっと曇り気味です。

小田原城天守閣からの景色・箱根の山

小田原城天守閣からの景色・箱根の山

天守閣の展望台からは海も見えます。

小田原城天守閣からの景色・海

小田原城天守閣からの景色・海

小田原城の天守閣は時期によって、夜間はライトアップされます。このときは、あいにく急激な雨にあってしまいました。

小田原城ライトアップ

小田原城ライトアップ

常盤木門

小田原城には天守閣以外にも門や堀などあり、難攻不落と言われていた城の面影を見ることができます。

本丸の正門である常盤木門(ときわぎもん)は1870年の廃城で取り壊されましたが、1971年に明治時代の写真などを参考にして復元されました。

この門の2階は「常盤木門SAMURAI館」となっており、日本刀や甲冑などが展示されております。

小田原城の常盤木門

小田原城の常盤木門

銅門

こちらの銅門は二の丸の正門で読み方は「あかがもん」といいます。1995年に復元されたものです。このときは2階の中に入ることが出来ましたが、いつでも公開しているというわけではないようです。

2階の中に興味のある方は小田原城の公式ページで事前に確認しておくことをおすすめします。

小田原城の銅門(あかがもん)

小田原城の銅門(あかがもん)

馬出門と内冠木門

左側の門が馬出門(うまだしもん)で、右の門が内冠木門(うちかぶきもん)です。どちらも2009年に復元されました。

小田原城の門

小田原城には立派な堀もあります。かなりの広さで、難攻不落だった面影が見られます。

小田原城の堀

小田原城の堀

小田原城の堀

小田原城の堀

小田原城歴史見聞館(NINJA館)

筆者が小田原城に行ったときにはなかったのですが、2019年4月に小田原城歴史見聞館(NINJA館)がオープンしました。

映像や展示を通じて北条氏の歴史やそれを支えた風魔忍者について学ぶことができるとともに、忍者体験もできます。子供が喜びそうなアトラクションですね。

北条家に使えた忍者といえば、風魔小太郎(ふうまのこたろう)が有名ですが、これは風魔忍者の棟梁を表し、代々世襲された名前だそうです。五代目の風魔小太郎は身長が2メートルを超える大男だったと伝えられております。

筆者も興味があるので、機会があったら「NINJA館」に行ってみたいと思います。

小田原城周辺の見どころは?

ここからは、小田原城周辺の見どころについて紹介したいと思います。

尊徳二宮神社

小田原城天守閣のすぐ近くには尊徳二宮神社があります。江戸時代に数理、土木建築技術から文学までいろいろな才能を発揮した偉人、二宮尊徳を祀る神社です。

報徳二宮神社

二宮尊徳(二宮金次郎)といえば、薪を背負って歩きながら本を読んでいる像が有名ですね。

この尊徳像は勤勉の象徴となっておりますが、今、街では同じような人たちをよく見かけますね。見ているのは本ではなくてスマホで、はたして勤勉なのかどうかは疑問は残ります。

この尊徳二宮神社が誕生した由来は、二宮尊徳の出生は小田原であり、尊徳を祀るために明治の時代にできたということです。

二宮金次郎像

二宮金次郎像

きんじろうカフェ

尊徳二宮神社の中には「きんじろうカフェ」があって、食事やコーヒーブレイクすることができます。

きんじろうカフェのメニューである「二宮尊徳の食事」というのが気になったので注文してみました。メインはご汁(ごじる)という冷たい大豆の味噌汁です。体に良さそうなものがいろいろと入ってましたし、これを食べると、なんだか尊徳のように頭がよくなりそうな気がしてきました。

二宮尊徳の食事

小田原市立三の丸小学校

小田原城の城門を出ると近くにちょっと気になる建物がありました。

和風で綺麗に整備された建物でホテルか何かだと思ったのですが、行ってみると意外にも小学校でした。小田原城周辺の景観を損ねないようにこのような造りになっているのでしょうが、こんな小学校にいける子どもたちが羨ましいと思いました。

観光スポットというわけではないですが、ちょっとびっくりしたのでレポートしておきます。

小田原城近くの小学校

生命の星・地球博物館

箱根登山鉄道で小田原から数駅の入生田駅近くには「生命の星・地球博物館」があります。中はかなり広く、隕石や恐竜の化石などを見ることができ、ドキュメンタリー映画なんかも上映しております。小田急電鉄の箱根フリーパスがあれば、割引料金で入場することができます。

生命の星・地球博物館 ティラノサウルスの化石

生命の星・地球博物館 ティラノサウルスの化石

石垣山一夜城

石垣山一夜城は豊臣秀吉が小田原城を落とすために作った城です。車などがあれば、簡単に行くことができますが、電車だと最寄りの駅は箱根登山鉄道の入生田駅またはJR早川駅で、そこからひたすら坂道を3キロ以上歩くことになります。

本数は少ないですが、小田原駅から「小田原宿観光回遊バス」で行くことも可能です。バスの詳細につきましてはこちらをご確認ください。

石垣山一夜城からの眺め

まとめ

かつては難攻不落の城と言われた小田原城の見どころなどについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。なぜ難攻不落なのかは、堀で囲まれた城下で食糧生産ができるため、長期戦に耐えられるといった理由からでした。

近年になって、門などが復元されているのがいいですね。子供が喜びそうな「NINJA館」も最近オープンしました。奈良では平城京の復元が進んでいますし、観光がもっとブームになれば、こういった動きはもっと活発になると思います。

観光地としては箱根のほうが有名ですが、小田原にも見どころはあります。なんといっても、非常にお得な箱根フリーパスが小田原周辺でも使用できる点が大きいです。

  • 戦国大名の北条氏の居城。
  • いつ築城されたのかは明らかになっていない。
  • 武田信玄や上杉謙信がこの城の攻略を途中で断念。
  • 難攻不落の理由は堀で囲まれた城下で食糧生産ができるため。
  • 豊臣秀吉が一夜城のトリックを使って落城させた。

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