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三十三間堂(蓮華王院)の観音像はなぜ1000体あるの?撮影禁止?

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三十三間堂入り口

京都の東地区にある三十三間堂は、就学旅行などでも利用される有名な観光スポットです。

驚くほど広いお堂の中にある1000体の千住観音像は、見るものを圧巻することでしょう。ここは比較的、京都駅に近い場所にあるということもあり、行きやすい観光名所でもあります。

この寺院は後白河法皇が創建しましたが、それには有名な平清盛が関わっていますが、名称に33という数字が入っているのは不思議だと思いませんか?

  • なぜ名称に三十三がついているの?
  • 観音像の数がなぜ1000体あるの?
  • どんな目的でいつ創建された?

三十三間堂について、このような疑問に答え、見どころや、その周辺の観光スポットについて紹介したいと思います。

三十三間堂ってどんなところ?

三十三間堂の読み方は「さんじゅうさんげんどう」といいます。正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)といいます。この寺院はどんなところなのでしょうか。歴史的背景などについて簡単に紹介したいと思います。

三十三間堂は誰が作った?

三十三間堂は1165年に後白河上皇が自身の離宮内(法住寺)に創建した仏堂となります。資材などの提供で平清盛が協力したといわれています。

平安時代後期に建てられた三十三間堂ですが、1249年に起きた建長の大火により消失してしまいました。その後、1266年に再建されております。

なぜ名称に三十三がついてるの?

建物の名称に三十三が付いて、不思議に感じる方もいると思います。なぜ三十三なのでしょうか。それは、本堂の柱と柱の間数(まかず)が33であることに由来しているといいます。

間数というのは単位のことで、一間は約182センチとなります。計算してみると三十三間は約60メートルとなります。随分と離れていますが、これで強度が保てるのはすごい技術だと思います。

なぜ千住観音像が1000対もあるの?

千手観音の千には無限の意味があるといいます。つまり、像の数に実際には1000体ですが、その意味は無限の像を表していると考えられます。

ちなみに豆知識として千住観音像の手は実際は42本です。合唱している2本の手意外は1本に付き、25の救いの働きがあると考えられております。

「40本の手」✕「25の救い」=「千手」

ということになります。

毎年行われる「通し矢」とは?

三十三間堂のお堂の長さは約120メートルもあります。徳川家光がその長い外廊下を使って弓矢の技術を競わせたのが始まりで、「通し矢」というイベントが毎年行われています。

これは約120メートル離れた的に一昼夜のうちに何本を矢を当てられるかというハードな競技です。競技中の食事やトイレはどうするのか気になってしまいます。

現在ではこのハードなルールはさすがに変更されていて、距離は60メートルで二回撃って二回とも命中すれば、決勝進出となります。決勝では一回ずつ撃って最後の一人になるまで当て続けた人が優勝となります。女性の種目もありますが、女性が60メートル離れた的を射るのは、かなり苦戦するようです。

通し矢の最高記録は?

三十三間堂の通し矢が過酷な競技だったことは理解していただけたと思いますが、最高記録はどうなっているのでしょうか。1688年に紀伊藩の和佐大八郎が13,053本の矢を撃って8,132本命中させたというのが、最高記録となっております。

現在ではルールが変わってしまっていますし、かつての厳しいルールに戻ることはないでしょう。したがって、和佐大八郎の最高記録が破られることはないと思います。

後白河上皇ってどんなひと?

後白河上皇がどんな人なのか、簡単に説明しておきたいと思います。

保元の乱で崇徳上皇を破る

後白河上皇は天皇時代の1156年に保元の乱(ほげんのらん)で平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)を味方に引き入れ、崇徳上皇(すそくじょうこう)側の軍を打ち破りました。

ちなみに源義朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父であります。保元の乱で味方同士だった平清盛と源義朝は1160年に平治の乱(へいじのらん)で争いますが、平清盛が勝利しました。

後白河天皇は1158年に上皇になって院政を初めますが、平清盛と蜜月な関係になって協力しあいました。1167年に平清盛はついに武士で初めて朝廷の最高職である太政大臣に任命されました。

1168年には清盛は出家し、後白河上皇は翌年の1169年に出家して法皇となっております。上皇と法皇の違いってなにと思うかも知れませんが、見た目以外の違いは特にありません。

後白河法皇と平清盛の関係の終焉

後白河法皇と平清盛のは共に協力して三十三間堂を建てるなど、蜜月関係が続きますが、やがてそれは終りを迎えます。

清盛の影響力はますます大きくなっていき、二人は表には出さないものの、次第に対立するようになっていきました。平清盛の動いたのは1179年で後白河法皇をとらえて鳥羽殿に幽閉してしまいます

鳥羽殿というのは伏見あたりにあった上皇のための離宮です。こうして後白河法皇の院政は停止し、清盛に権力が集中します。

清盛は娘の平徳子と高倉天皇の間に生まれた安徳天皇を3歳で即位させます。3歳で政治ができるわけではないので、こうなると清盛による院政ということになります。

清盛はこれで平氏の繁栄がずっと続くと思いましたが、強引なやり方は逆に反平氏勢力を決起させてしまいました。反平氏勢力の代表となるのが源頼朝や木曽義仲です。清盛は反平氏勢力との戦いの最中、1181年に病気でなくなりますが、死ぬ間際に「わが墓前に頼朝の首を」と語っていたといいます。

後白河法皇は源平合戦の最中である1183年に幽閉先から脱出し、院政を復活させました。壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだ後、後白河法皇は源義経に官位を与えて、それがきっかけで頼朝と義経の兄弟仲が悪くなっています。

三十三間堂の見どころは?

では、後白河方法が上皇時代に創建した三十三間堂の見どころについて紹介したいと思います。

建物の外観

こちらが三十三間堂の外観です。建物の中は古い建築物にしては、非常に広いです。建物の長さは約120メートルあるそうですが、清盛の当時の財力がすさまじかったことが、なんとなくわかります。

建物時代は鎌倉時代に再建したものですが、それでもかなり年期のある建物であることが見た目でも伝わってきます。

三十三間堂

三十三間堂

1000体の観音像

三十三間堂の見どころはなんといっても、中に1000体の金の観音像があって見るものを圧倒する迫力があるのですが、残念なことに中は撮影は禁止となっております。

観音像がどうしてもみたい方は、インターネットで「三十三間堂 観音像」などで検索すれば、恐らく特別撮影許可された写真を見つけることができます。

ユーチューブの映像でも観音像の様子を見つけることができました。個人が勝手に撮影している場合もあるかもしれませんが、この動画は新聞社による撮影なので、許可を撮っているはずです。

ちなみにお堂の中は土足禁止にもなっているので、入る前に下駄箱に靴を預けることになっております。

三十三間堂の庭園

1000体の観音像もすばらしいのですが、三十三間堂の庭園もなかなかの眺めです。11月末だったこともあり、ところどころに紅葉が見られます。

三十三間堂の庭園

三十三間堂の庭園

庭園にそびえ立つ石塔には「写経奉納塔」と書いてあります。特に歴史的な建造物というわけではないようです。

写経奉納塔

写経奉納塔

夜泣泉

三十三間堂の庭園にある夜泣泉(よなきせん)です。

ある僧が夢のお告げで発見したという霊泉ですが、夜に水の湧き出す音が「すすり泣き」のように聞こえたので、夜泣泉と呼ばれるようになったそうです。

夜泣泉

夜泣泉

三十三間堂周辺の観光スポットは?

三十三間堂周辺の観光スポットについても簡単に紹介したいと思います。

後白河天皇陵

三十三間堂のすぐ近くには後白河天皇陵があります。この辺りに後白河法皇が院政を行っていた施設があったそうです。

後白河天皇陵

後白河天皇陵

養源院

後白河天皇陵のとなりには、戦国大名の浅井長政を祀るお寺(養源院)があります。

織田信長の妹のお市の旦那で、信長に滅ぼされた戦国武将の浅井長政です。なぜ、浅井長政を祀るお寺がここにあるのかちょっと不思議なのですが、豊臣秀吉の側室の淀殿が秀吉に懇願して建ててもらったそうです。

淀殿といえば、浅井長政と信長の妹であるお市の間に生まれた子供ですね。長政の「長」は信長が自分の名前の一部を与えたものだそうですが、まさか二人が戦うことになるとは思ってもいなかったことでしょう。

信長が越前の朝倉義景を攻めようとしたところ、織田家と朝倉家両方と関係が深かった、浅井長政が信長を背後から攻め、信長は窮地に追い込まれます。このとき信長はわずかな兵とともに、こっそりと山道をぬけて京都へと逃れました。

養源院では、この日は中で結婚式をやっていたみたいです。和服姿の新郎新婦が写真撮影を行っていました。その際に突風が吹いて紅葉が一斉に落ち、とてもいい絵が撮れていました。

養源院

養源院

豊国神社・方広寺

三十三間堂の近くには、豊臣秀吉を祀る豊国神社や、大阪夏の陣の引き金となった鐘がある方広寺などの観光スポットもあります。

豊国神社の石碑

三十三間堂のアクセス方法は?

三十三間堂は京都駅から1キロ程度の場所にあるので歩いて行くことも十分可能です。最寄りの駅は京阪本線の七条となります。

京都駅からバスで行くことも可能です。バス停は「博物館三十三間堂前」で、そこからすぐ目の前です。

まとめ

京都東地区にある人気の観光スポット、三十三間堂(蓮華王院)の見どころなどについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。

この寺院の創健者は後白河上皇(のちの法皇)ですが、平清盛と共作といってもよいでしょう。蜜月だった二人の関係は最後まで続かず、清盛は後白河法皇を幽閉すると言った暴挙にでてしまいます。

三十三間堂の最大の見どころである1000体の千住観音像は無限の像の意味を表していると考えられてましたね。観音像は撮影禁止で写真を掲載できないのは本当に残念ですが、ぜひ一度、ご自身の目で実際に確かめてほしいと思います。

千住観音像自体はネット上や写真集などで、一部を見ることが可能ですが、やはり実際に目の前にする1000対の観音像は、写真ではわからない迫力があるものです。

三十三間堂の庭園も整備されていて、見どころのひとつとなっております。ぜひ一度は、行ってみてはいかがでしょうか。

  • 三十三間堂の読み方は「さんじゅうさんげんどう」。
  • 正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
  • 1165年に後白河上皇が創建。資材などの提供で平清盛が協力。
  • 本堂の柱と柱の間数(単位)が33であることに由来。
  • 中はとにかく広く、お堂の長さは約120メートル。
  • 毎年、「通し矢」という弓矢のイベントが開催。
  • お堂の中には1000体の金の観音像が設置。

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