清水寺や金閣寺など観光スポットが多い京都ですが、京都駅から徒歩で行ける場所にも見どころがたくさんあります。
駅のすぐ近くには本願寺がありますし、少し頑張れば、二条城や清水寺ぐらいまでは十分に歩いて行くことも可能です。
さて、駅前のすぐにいける場所にある本願寺というのは、どんなところでしょうか。東と西に分かれているのはなぜなのでしょうか。本願寺といえば、戦国時代に織田信長と深く関わった自身ですが、そのあたりなどの歴史を簡単に解説したいと思います。
また、本願寺周辺の見どころについても紹介します。
本願寺ってどんなところ?
それでは、本願寺がどんなところなのか簡単に解説しておきます。
本願寺とは?
本願寺とは、宗祖である親鸞聖人をお祀りする浄土真宗の寺院です。親鸞というのは、教科書にも登場するのでご存じの方も多いと思いますが、鎌倉時代の仏教家です。彼は法然上人を師して仰いでいました。
浄土真宗は、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば誰でも仏となる」という他力本願の考え方が特徴です。当時の仏教の教えでは「妻を娶ってはいけない。」「肉を食べてはいけない。」などが普通ですが、浄土真宗においては、これらを禁止しておりません。
そのため、空海や最澄といった有名なお坊さんには子孫はいませんが、親鸞には子孫がいて、本願寺の門主を努めています。一言で言えば、比較的ゆるい教えの仏教ということになります。
また、本願寺は東と西に分かれていますが、西は「浄土真宗本願寺派」、東は「真宗大谷派」と宗派が異なっています。これらの宗派の分裂には、あの織田信長が関わっていました。
本願寺と大阪城の意外な関係とは?
本願寺というと、織田信長との戦い(石山合戦)が有名です。
石山合戦は信長が石山から本願寺の施設の退去を迫ったことがきっかけとなりました。このとき本願寺は京都ではなく大阪にありましたが、大阪城のある辺りが元々は本願寺だった場所です。
この石山合戦は1570年から1580年まで、なんと10年間も続いております。信長は数々の敵と戦いますが、最も苦しめたのが本願寺だったのかも知れません。
本願寺が東と西に分かれた理由とは?
では、この本願寺ですが分裂した理由は何なのでしょうか。それは、石山合戦で徐々に信長に追い詰められてきた本願寺は次の2派に分裂していきました。
- 信長と講話を望む勢力
- 信長に抵抗を続ける勢力
1570年頃といえば、信長の領土はまだ尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県)、伊勢(三重県)程度で、包囲網を築かれて苦しんでいましたが、その後に姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破って、長篠の戦いでは武田氏を撃退して、いよいよ手がつけられなくなります。
石山合戦が終わった1580年頃には、信長による天下統一が見え始めていました。
本願寺は最後は降伏して信長に石山を明け渡しますが、本願寺の分裂は決定的となり、東と西に別れることとなりました。
- 東本願寺:最後まで信長に徹底抗戦を主張
- 西本願寺:信長との和睦を主張
西本願寺は1591年に豊臣秀吉から土地を寄進してもらいました。秀吉が信長と本願寺の和睦を引き継いだ格好です。これに対し、東本願寺は1602年に徳川家康から土地を寄進してもらい創建しました。
延暦寺宗徒の攻撃で本願寺が破壊?
本願寺といえば、信長の攻撃を受けた寺院というのが有名で解説してきましたが、それまでにも襲撃され、本拠地を移すことを繰り返しています。
当初は大谷廟堂(おおたにびょうどう)に大谷本願寺という建物がありました。大谷廟堂は、浄土真宗の宗祖とされる親鸞の墓所ですが、京都市東山区林下町付近にあったと推測されています。現在はその場所あたりには知恩院などがあります。
この大谷本願寺ですが、1465年に延暦寺宗徒の攻撃を受けて破壊されてしまいます。その後、本願寺が再建されたのは、今の京都市山科区で、ここは山科本願寺と呼ばれています。
法華宗によって焼き討ち?
造営により建物を増やしてした山科本願寺ですが1532年、今度はに法華宗(日蓮宗)に焼き討ちされてしまいます。その結果、石山本願寺に移ることになりますが、今度は数十年後に、その石山が信長の攻撃を受けることになります。
山科本願寺があった場所には、現在は土塁跡などの一部が残っております。
本願寺は世界遺産登録されている?
さて、京都ではいろいろな神社仏閣が世界遺産登録されていますが、本願寺はどうなのでしょうか。
これは意外なことに、西本願寺は「古都京都の文化財」として登録されていますが、東本願寺は登録されていません。東本願寺は焼失によって明治に再建されため、歴史歴価値が落ちるということのようです。
見た目も西本願寺のほうが明らかに古びており、東本願寺は比較的新しくて豪華です。
本願寺と龍谷大学の関係とは?
京都には龍谷大学(りゅうこくだいがく)という有名な大学がありますが、この大学が本願寺に関係しているのはご存知でしょうか。
龍谷大学は1639年に西本願寺に設けられた「学寮」を起源としています。名前の由来も西本願寺の山号である龍谷山から取っております。山号というのは、寺院の名称の前に冠する称号のことです。比叡山や成田山が有名ですね。
ちなみに東本願寺には山号はありません。
東本願寺の見どころは?
本願寺には東本願寺と西本願寺がありますが、東のほうが京都駅からは若干近いです。
京都駅から東本願寺までの距離は約300mぐらいです。すぐに行けますし、特に拝観料もとられないので、手軽にいけるおすすめのスポットといえます。
京都のお寺などを拝観して廻っていると、1つ1つの拝観料は大きくなくとも、いつの間にか、財布の中身が少なくなっているものです。その点でいえば、拝観料無料の観光スポットは、ありがたい限りです。
東本願寺の見どころについて、写真などで紹介したいと思います。
阿弥陀堂門
京都駅から歩いて向かっていくと見えてくるのは阿弥陀堂門(あみだどうもん)です。1911年(明治時代)に建てられたもので、重要文化財に指定されています。
阿弥陀堂
阿弥陀堂門をくぐると、正面に阿弥陀堂が見えます。阿弥陀如来を安置するお堂で、1895年に再建されたものです。こちらも重要文化財に指定されています。
御影堂
阿弥陀堂の右隣には御影堂(ごえいどう)があります。御影堂は、とにかく大きくて立派で中も広いです。人の大きさと比較してみると、その大さがわかると思います。中は豪華で鮮やかなのですが写真撮影は禁止となっていました。
阿弥陀堂と同じく、1895年に再建されたもので、重要文化財です。ちなみに、この御影堂の右どなりの建物には地下もあって、地下には展示室やシアターなどがあります。
御影堂門
御影堂の正面に建っている門は御影堂門です。阿弥陀堂と同じく、1911年に建てられたものです。こちらも重要文化財です。
西本願寺の見どころは?
東本願寺から西本願寺は距離にすると300Mぐらい離れたところにあります。東本願寺はとても豪華なイメージでしたが、こちらはかなり古い建物といった印象を持ちました。
西本願寺の見どころについて紹介したいと思います。
御影堂門
西本願寺の御影堂門は江戸時代の1645年に建てられたものです。東本願寺の御影堂門と比べるとかなり年季があります。
御影堂
西本願寺の御影堂です。東本願寺では左が阿弥陀堂、右が御影堂でしたが、西本願寺では左が御影堂で逆となっております。
江戸時代の1636年に建てられたもので、国宝となっております。
阿弥陀堂
御影堂の右にあるのが阿弥陀堂です。阿弥陀如来像を安置するお堂となります。
御影堂と比較すると新しい建物で1760年に建てられたものです。1618年に建てらてた旧阿弥陀堂よりも大規模になりました。国宝に指定されています。
阿弥陀堂門
1802年に建設された阿弥陀堂門は、重要文化財に指定されています。
本願寺ブックセンター
西本願寺の中にブックセンターがあるのはちょっと驚きです。陳列している本はさすがに普通の本屋とはちょっと違って、仏教に関するものが多ったです。
本願寺周辺の見どころは?
本願寺周辺の見どころを紹介したいと思います。
京都駅から東に行けば清水寺などがあり、南に行けば東寺があります。いずれも十分歩いていける場所なのですが、今回は北の烏丸(からすま)のほうへ行ってみたいと思います。
京都駅から北の見どころといえば、二条城、京都御所などがあります。
本能寺跡
西本願寺から北に1.5キロ程度の場所に本能寺跡があります。
言わずと知れた信長の最後となった「本能寺の変」の本能寺です。信長の亡骸は結局発見されなかったそうですが、その後の歴史に信長が出てこないので、ここで最後を迎えたことは間違いないのでしょうね。
現在、本能寺跡には大きな建物がたっております。以前は小学校だったそうですが、今は自治会館、高等学校、老人ホームの複合施設が建っています。
二条城
本能寺跡から北に1キロ弱行くと、京都の観光スポットとして有名な二条城があります。1603年に徳川家康が築城した城で、家康が征夷大将軍に任命された場所でもあります。
また、徳川慶喜が大政奉還を行ったのも二条城で、江戸幕府が始まりの場所であり、終わりの場所でもあります。
二の丸御殿の中はとても広く、部屋がたくさんあります。敷地には立派な庭園もあって、結構広いです。かなりゆっくりとしたペースでしたが、すべて廻るのに1時間半ぐらいかかりました。詳細につきましては次の記事をご参考ください。
京都御苑・京都御所
二条城から500メートルほど北東に歩いた場所に京都御苑があります。
京都御苑の中にある京都御所は1392年から1869年まで皇居となっており、歴代の天皇たちがここで儀式や公務を行っておりました。
中を拝観することもできるのですが、10月~2月は最終入場が15:20までで、この日は間に合いませんでした。
残念ですが京都御所の中の拝観は、また次の機会にしたいと思います。
それにしても塀で囲まれているとはいえ、堀などもなく防御力はお城よりも明らかに落ちます。
信長が襲われた本能寺も、広さは倍以上違いますが塀で囲まれていて、恐らくは京都御所に近い防御力はあったのではないかと考えられます。しかし、光秀の大群に為す術もなく、信長は命を落としてしまいました。
それを考えると、この建物では戦国時代の天皇の居場所としては手薄な感じを受けます。この御所にいる間、天皇が襲われることがなかったのは幸いですが、ちょっと不思議な感じもします。
- 天皇が恨みを買うことは特になかった
- 歴史に汚名を残すような行為はしたくなかった
- 神格化していて襲うなんて言語道断だった
など、いろいろ考えられますが、家康が信長の死後に二条城を築城したのには、「守備不足の場所に宿泊する」といった信長の失敗に学んだというのもあったのではないでしょうか。
尾張屋
京都らしいお土産がほしいと思って選んだ店が尾張屋です。京都御苑から少し南に行った場所にあります。
創業はなんと1465年で、このときは菓子屋でした。今は菓子も扱っておりますが、どちらかというと蕎麦屋(そばや)みたいです。
1465年といえば、室町時代で応仁の乱(1467年)が始まる前です。応仁の乱で京都の店は大分被害を受けたようですが、この店は運良く残ったみたいですね。
おみやげにそば餅と蕎麦板(そばいた)のセットを買いました。
まとめ
本願寺についての歴史や見どころについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
この寺院が東と西に別れている理由は、信長との合戦(石山合戦)においての意見の違いからでした。喧嘩別れした格好ですが、今ではお互いに交流しているといいます。
元々はひとつで分裂してしまった本願寺ですが、西本願寺が世界遺産登録されていて、東本願寺が登録されていないのは以外な感じがしますね。
京都といえばバスで観光するのが普通でしょうが、駅から意外と狭い範囲に観光スポットが集中しているので、歩いてでも十分廻ることができます。
今回は北に向かいましたが、南の東寺、東の三十三間堂なども十分に京都駅から歩いていける観光スポットです。バスで何回も京都観光してきた人でも、歩いてみるとまた違った景色が見えてくるかもしれませんね。
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