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国立歴史民俗博物館・歴博の見学レポート!弥生時代の見どころは?

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弥生時代|家猫の模型

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)は歴史学、考古学及び民俗学に関する資料が展示されている、日本で唯一の国立博物館です。

国立歴史民俗博物館は主に次の6つの展示室で構成されていることは、以前の記事で説明いたしました。

  • 第一展示室:先史・古代
  • 第二展示室:中世
  • 第三展示室:近世
  • 第四展示室:民族
  • 第五展示室:近代
  • 第六展示室:現代

国立歴史民俗博物館の館内案内図

以前の記事で縄文時代までの先史についてはレポートしましたので、今回は第一展示室の主に弥生時代の見どころなどについてレポートしていきたいと思います。

弥生時代の見どころは?

弥生時代は稲作を主とした時代で、紀元前10世紀頃から始まります

この頃から副葬品とともに墓が現れます。縄文時代は身分の差がなかったようで集団埋葬が行われていましたが、この頃から権力者が登場したためか、豪華な墓が作られるようになったと思われます。

磨製石剣

打ち砕いて作られた石器が打製石器(だせいせっき)で、これらの石器が使われていた時代を旧石器時代と呼びます。打製石器に対して、石を磨いて作られた石器が磨製石器(ませいせっき)となります。

こちらは福岡県で見つかった墓の副葬品で、磨製石剣です。石を磨いたものと聞いてもそんなの本当に切れるのと思うかも知れませんが、写真を見ると意外と切れそうな感じがしませんか?

この磨製石剣が武器として使用されていたのか祭具だったのかはわかりません。でも、これを見ると武器として使えそうな気がします。

磨製石剣は弥生時代になってから誕生したというわけではなく、縄文時代の後期の遺跡からも出土するそうです。もっとも、縄文時代から弥生時代へは具体的な王朝交代とかが行われたのではなく、その境界はあいまいです。

磨製石剣

ちなみに、こちらは磨製石器の斧となります。鉄の斧と違って、木を切ったりすることは難しいと思われますが、これで殴られたらひとたまりもないですね。

石斧

銅鐸

こちらの銅鐸(どうたく)も、教科書などで一度は見たことがあるのではないでしょうか。

銅鐸は西日本で出土するものなのですが、何に使用されていたのかは定かではありません。語源となった鐸というのは古代中国で使用されていた楽器のことをいいます。

日本の銅鐸が楽器なのかどうかはわかりませんが、風鈴のように中に芯を吊り下げて、音を鳴らして使っていたと考えられています。

大きさは長さが10センチ程度のものから1メートルと超すものまで様々です。

銅鐸

銅剣・銅矛

こちらの銅剣は紀元前1世紀のもので、福岡県の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)から出現したもの複製品です。

ちなみに、三種の神器である天叢雲剣(読み:あまのむらくものつるぎ|別名:草薙の剣)は天皇でさえも見ることができませんが、江戸時代に熱田神宮の神官たちがこっそりと見たという記録によると、錆はなかったそうです。

この記録が本当だとすると天叢雲剣は銅剣ではないかと、推測されます。

銅剣

こちらの銅矛は紀元前4世紀のもので、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)で発見されたものの複製です。こんなもので刺されたら、ひとたまりもないですね。動物を狩ることも可能でしょうが、戦の武器として使用していたのでしょうか?

銅矛

木製の鎧

こちらの木製の鎧は岡山県の南方遺跡(みなみかたいせき)で発見されたもので、紀元前3世紀のものです。用途は人間同士の戦いであることは明らかです。のどかで争いがなさそうな縄文時代と違って、弥生時代は戦いの多い時代だったのでしょう。

木製の鎧

環濠集落の模型

環濠集落の模型です。環濠集落(かんごうしゅうらく)というのは周囲に堀をめぐらせた集落のことをいいます

環濠集落は西日本から関東、新潟で存在が確認されておりますが、東北では見つかっておりません。堀は外敵から守るために設置されているもので、この頃には人間同士の戦いが盛んに行われていたと考えられます

稲作には領地と水源が必要となります。この時代に領地が飽和していたとは思いませんが、水源はどこにでもあるわけではありません。当然、それらを求めて争いが起きるわけです。

環濠集落の模型

堀の周りの様子です。柵があって、その脇には堀があります。

環濠集落の模型

家猫の模型

弥生時代になって人類の戦いの形跡が続いていたので、ここでちょっとほのぼのとする模型を紹介します。

こちらは家にいる猫の様子を表した模型であり、高床式住居の中に猫がくつろいでおります。これを見て修学旅行の子供たちが「猫がいる」とか言って喜んでおりました。

長崎県壱岐の遺跡(紀元前3世紀~2世紀)から、家が飼っていたと思われる猫の骨が出現しました。犬は縄文時代から人間が飼っていましたが、この頃には猫も飼い始めていた可能性があります。

家猫の模型

縄文と弥生の女性を再現した模型

縄文人女性と弥生人女性を再現した模型です。どっちがどっちだか、わかりますでしょうか?

縄文人女性と弥生人女性の再現模型

答えは左が弥生人、右が縄文人です。顔はそれぞれの時代の人の頭蓋骨から復元しております。縄文人女性のほうを見たとき、一瞬、武道の元金メダリストが頭によぎりました。弥生人のほうは、あまり日本人っぽくなくない感じですね。

「漢委奴国王」金印

こちらも教科書などで一度は見たことがあると思います。漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)です。国立歴史民俗博物館にある金印はレプリカであり、本物は福岡博物館に保管されております

数年前に来たときには、展示していなかったと思います。もっと大きいものかと思っていましたが、1辺が2センチ強とかなり小さいです。

中国の後漢書に光武帝が57年に奴国(なこく)からの使者へ印を授けたという記録があり、それがこの金印だと考えられております。奴国というのは、現在の博多辺りにあった国だといわれております。

この金印は江戸時代に志賀島で百姓が巨石の下から発見しました。発見場所は現在は金印公園となっております。

「漢委奴国王」金印

「漢委奴国王」金印

金印といえば邪馬台国の卑弥呼が魏の国から授かったものがよく知られていますが、魏志倭人伝という文献に登場するだけで、卑弥呼の金印は発見されておりません。これがもし出土したら、世紀の大ニュースとなり、大論争が起こることでしょう。

銅鏡

弥生時代後半の遺跡からは鏡が出てきますが、最初の頃は中国大陸から渡ってきたものでした。邪馬台国の卑弥呼にも三国志で有名な魏の国から、百枚の銅鏡を送られたと記録されております。

古代の鏡

古代の鏡

こちらは三角縁神獣鏡(さんがくぶちしんじゅうきょう)です。日本で数多く出土しておりますが、これが卑弥呼がもらった鏡だという説もあります。

ただ、中国では出土されていないため、これは日本産の銅鏡だという説もあります。

三角縁神獣鏡

弥生土器

芸術的な模様の縄文土器と比較すると、弥生土器はシンプルです。現代人で食器に芸術を求める人はあまりいないと思いますが、より実用的になったということなのでしょう。

弥生土器

弥生土器

弥生土器

鉄剣

弥生時代の後期になると、鉄器が登場します。錆がなく綺麗ですが、こちらは複製品です。

弥生時代の鉄器は主に九州で出土しております。その辺りが邪馬台国九州説の根拠のひとつとなっておりますが、それは青銅よりも鉄の武器のほうが強いと考えられているからです。

個人的には、鉄の武器の軍隊と青銅器の軍隊が戦って、鉄器の軍隊のほうが絶対に強いとは個人的には考えません。

鉄器のほうが優れた武器であり、多少は有利かもあるかもしれませんが、青銅器でも殺傷能力は十分ありますし、鉄の武器で青銅器を破壊できるというわけではないですからね。あくまで、軍隊の数は装備の数、兵の訓練度などのほうが勝敗に影響するのではないでしょうか。

簡単に言えば、同じような強さの人が3対1で、3が青銅器、1が鉄器で戦ったら、どちらか強いかってことです。

弥生時代の鉄剣

弥生時代の鉄剣

古代の沖ノ島

4世紀から9世紀にかけての沖ノ島(おきのしま)の特設コーナーが設置されております。

沖ノ島というと千葉県館山市にもありますが、こちらは島根県にある沖ノ島です。島根県には同じ読み方の隠岐の島もあるので、間違えないようにしてください。

ちなみに後醍醐天皇が島流しにされたのは隠岐の島のほうです。

沖ノ島は小さな島で世界遺産にも指定されているのですが、一般人は島に入ることはできません。古代から今も神聖な祭祀の場所となっていて、謎のベールに包まれております。

古代の沖ノ島

沖ノ島の祭場で、土器や銅鏡が発見されたときの再現模型などが展示されております。

古代の隠岐の島

古代の隠岐の島

まとめ

国立歴史民俗博物館(歴博)の第一展示室の主に弥生時代についての見どころについてレポートしてきましたが、いかがでしたでしょうか。

のんびりとして平和なイメージのある縄文時代と違って、弥生時代は人類同士の戦いの歴史といったような感じがしました。稲作などが伝わって食料的には豊かになったのかも知れませんが、人口が増えて土地や水源を奪い合うようになったのでしょう。

国立歴史民俗博物館はこのほかにも中世と近世の展示室などがあります。歴史が好きな方、歴史を学びたい方、または子供に歴史の興味を持ってもらいたい方など、ぜひ一度行ってみてください。

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