千葉県の佐原は江戸時代に栄えた場所であり、当時の面影が今も残っております。佐原は2006年までは市でしたが、その後は合併して香取市になりました。
佐原にいた江戸時代の有名人物には伊能忠敬がおりますが、その旧宅が今でも残されており、観光地となっております。
この伊能忠敬はどのような人物なのかご存知でしょうか。彼は日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させました。
- 測量にかかった期間は?
- どのくらいの距離を歩いた?
- 地図を作った理由は?
などの疑問に答え、伊能忠敬旧宅の見どころなどを紹介したいと思います。
伊能忠敬ってどんな人?
伊能忠敬というのは、どんな人なのでしょうか。簡単に説明すると忠敬は江戸時代に徒歩で日本国中を測量してまわり、実測による日本地図を初めて完成させた人です。
日本国中を歩いて回るなんて信じられないかもしれませんが、測量の期間はなんと17年間かかりました。完成した地図は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)といいます。
忠敬は千葉県の九十九里で生まれ、佐原で商売をしていましたが、その後は49歳で家督を長男に譲り江戸で隠居生活を送っていました。そして何を思ったのか55歳から測量を開始しました。今でこそ、55歳といえばまだまだ働き盛りですが、当時としてはかなりの高齢だったはずです。
1950年頃は日本人の平均寿命は60歳以下でしたし、明治時代は45歳以下でした。江戸時代についてはよくわかっていないようですが、おそらくは平均寿命はそれ以下だったと考えられます。そんな時代に55歳から過酷な測量の旅に出るのですから、かなりの一大決心だったと思われます。
伊能忠敬が地図を作った理由は?
そこで気になるのが伊能忠敬が地図を作ろうと思い立った理由です。
隠居して江戸に出てきた忠敬は暦学の勉強に励みました。もっとも彼は佐原に住んでいた頃から独学で暦学を勉強していたといいます。江戸では高橋至時(たかはしよしとき)という天文学の学者から暦学を学んでいました。
暦学というのは、太陽・月・暦の運行を観測して、暦(カレンダー)を作る学問で、天文学の一分野のことです。しかし、勉強していた忠敬はあることに気づきました。それは、
ということです。つまり彼が地図を作りたいと思った理由は、暦学の計算のために必要だったからということです。あくまでメインは日本の正確な地図を知りたいというのではなく、暦学のためだったのです。
最初の測量はどこから?
伊能忠敬が最初に測量を開始したのは蝦夷地(北海道)からです。その背景には支援していた幕府が蝦夷地の地図を必要としていたことがあったようです。
その後、東北、北関東を測量して、できあがった地図の精度に幕府が満足し、忠敬に対して全国測量を命じました。そして近畿、中国、四国、九州の順に測量しました。
測量で歩いた距離は?
伊能忠敬が測量で歩いた距離は17年間の測量で約4万キロと言われており、これは地球一周の距離と同じです。
彼が距離を測るために使用していたのは、なんと自分の歩数です。歩数なんて誤差が大きくて使いものにならないよと考える方もいると思いますが、彼は毎回同じ歩幅で歩けるように訓練をしていました。
測量中も病気に悩まされたいた?
55歳から日本全国を徒歩で旅してまわるなんて、伊能忠敬という人は、健康で超人的な肉体の持ち主であるに違いないと思うかも知れません。彼は実は忍者だったのでないかという都市伝説もネット上では飛び交っているようです。
しかし実際は忠敬はそれほど健康的ではなく、若い頃から病気がちだったようです。測量中も慢性気管支炎に悩まされていたらしく、死因も気管支炎の悪化だったと言われております。
彼の残した名言に「歩け、歩け。続けることの大切さ」というのがありますが、自身は病気に悩みながらも、測量のためにひたすら歩き続けました。
伊能忠敬が亡くなったとき、まだ地図は完成しておりませんでしたが、作業は弟子たちにより継続されて完成に至りました。
伊能忠敬旧宅の見どころは?
千葉県佐原の小野川沿いに伊能忠敬旧宅が残っております。忠敬はここで店の経営をしており、酒や醤油を醸造して売っておりました。
昭和20年代までは伊能家の住居でしたが、今では誰も住んでおらず、一般公開されております。では、さっそくその見どころを紹介したいと思います。
見学の所要時間は10から20分といったところです。
建物は主に店舗、炊事場、書院がありますが、こちらが店舗だった場所です。奥の方に伊能忠敬の肖像画が置いてあります。
こちらは炊事場だった場所です。江戸時代なので釜戸があります。
こちらは書院です。いくつか部屋があってなかなかの広さです。忠敬は事業もうまくいって、資産を3倍以上に増やしたといいます。
一説によると、忠敬が隠居したときは伊能家の資産は現在の価値にして45億円あったともいわれております。
こちらは庭にある土蔵です。土蔵とは耐火性のある倉庫のことをいいます。忠敬が婿養子に来る前から、ここにあったそうです。
庭にはまた、伊能忠敬が作った家訓を示した碑があります。家訓は3つあって、意訳するとこんな感じです。
忠敬旧宅に前には樋橋(とよはし)という橋があります。橋から水が滴り落ちていますが、30分間隔で5分ほど落水すると聞いていたのですが、この日は11時40分と、12時40に落水が確認できました。
記念館の中にいたので、その間に落水があったかどうかはわかりません。とにかく、あまり頻繁ではないので、見れたらラッキーといったところです。
伊能忠敬記念館の見どころは?
伊能忠敬旧宅から出て正面の樋橋を渡ると、伊能忠敬記念館があります。
この記念館では忠敬の佐原時代の生活や測量の様子が紹介されており、見どころは彼の作った地図や測量器具などが展示されているところです。中は撮影禁止でしたので、残念ながら写真は紹介できません。
見学の所要時間は20,30分程度です。
記念館の脇には、楫取魚彦旧宅跡という石碑があります。楫取魚彦(かとりなひこ)は江戸時代の学者であり、歌人であり、画家でもあります。本名は伊能景良といって、忠敬の親族でもあります。
忠敬よりは20歳ほど年上ですが、ご近所でもあるし、影響を与えた人物かも知れません。
伊能忠敬旧宅周辺の見どころは?
旧宅周辺の見どころについても紹介したいと思います。
佐原の歴史的町並み
佐原は利根川などの交通の便がよく、江戸時代に栄えた場所です。忠敬旧宅の前の小野川周辺は古い建物が多く、当時の面影が残っております。
佐原三菱館
佐原三菱館は旧川崎銀行佐原支店として1914年(大正時代)に建てられたレンガ造りの建物です。1989年に佐原市に寄贈されました。伊能忠敬旧宅から約徒歩2分の場所にあります。
忠敬茶屋
忠敬茶屋は昼食なんかもで喫茶店で、おみやげなども扱っております。
「忠敬好み お茶漬け」というメニューが気になったので注文してみました。お茶漬けというと永谷園のお茶漬けのイメージが強く、あれはお湯をかけるのでお茶の味はしません。お茶の成分は一応入っているようです。
しかし、このお茶漬けは、本物のお茶をご飯にかけるといったもので、だしなどは入っていない感じです。そのまま食べるとお茶味のご飯なのですが、佃煮やお新香を乗せることで塩味も出てきます。
忠敬は牡蠣や蕎麦、しそ巻唐辛子、奈良漬などが好物だったようで、こちらのお茶漬けは忠敬の大好物というよりは、江戸時代のお茶漬けといった感じでしょうか。
観福寺・伊能忠敬のお墓
観福寺は平安時代に創建された古いお寺で、伊能忠敬旧宅から1キロ程度の場所にあります。
観福寺の奥の方には伊能忠敬の墓があります。とはいっても、ここには髪と爪が収められているそうで、遺骸は東京の源空寺(げんくうじ)に暦学の師匠である高橋至時と並んで葬られております。
まとめ
江戸時代に活躍した伊能忠敬がどんな人物なのか、そして今も佐原に残っている旧宅について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
商売で成功した彼は、江戸でのんびりと隠居生活を送る道もありましたが、あえて過酷な測量の旅に出ました。そして当時としては、かなりの長生きをして旅を終えることができました。次のような名言も残しております。
人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない
彼の生き方からの教訓は、なにかを始めようと思ったとき、年齢を恐れずにやってみろということですね。とはいっても、50を過ぎてから野球をはじめて、プロ野球選手を目指すとかは無理ですよ。できる可能性が少しでもあったら、やってみろということだと思います。
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