高台寺・圓徳院|寧々(北政所)と秀吉のエピソード

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北政所

画像の出典:Wikipedia

北政所の読み方は「きたのまんどころ」といいます。「寧々(ねね)」とか「おね」とか呼ばれることもありますね。

北政所の旦那といえば有名ですが、天下統一を果たした豊臣秀吉です。秀吉の死後、北政所は出家して「高台院(こうだいいん)」と呼ばれるようになりました。

ちなみに北政所となったのは秀吉が関白になった後のことです。元々の意味合いとして、摂政・関白の正室の称号を北政所といいますが、今では北政所といえば寧々という感じになっておりますね。

子供の頃は関白がなんなのかよくわからずに関白秀吉とか言ってましたが、関白というのは朝廷から与えられる位のことです。

よく摂政・関白などと言われますが、摂政(せっしょう)は天皇が幼かったりした場合、代理で政治を行う人です。摂政では聖徳太子が有名ですね。それに対して関白(かんぱく)は天皇の相談役といったところです。要するにとても位の高い偉い人ということです。

北政所(寧々)にまつわるお寺として京都の高台寺(こうだいじ)や圓徳院(えんとくいん)が有名です。これらの寺院に寧々がどう関係しているのでしょうか?

そのへんについて見ていきたいと思います。また、寧々について残されている気になったエピソードも紹介しております。

高台寺

高台寺は北政所こと寧々が秀吉の冥福を祈るために1606年に建立した寺院です。秀吉が没したのが1598年なので、その8年後に建てられたことになります。

秀吉の死因については諸説ありますが、一説には歯がすべて抜けてしまって、食べ物がろくに食べられなくなってしまったためとも言われております。

入れ歯がなかったので、歯がなくなることは死活問題という時代でした。秀吉の抜け落ちた最後の歯といわれてるものが、豊国神社の宝物館に飾られております。

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高台寺は伏見城の一部を移築して作ったと言われております。伏見城は秀吉が晩年に住んでいた城ですが、現在は残っておりません。現存している伏見桃山城を秀吉の住城である伏見城と勘違いしてしまいがちですが、この2つは別物です。

伏見桃山城は伏見城の跡地に割と近い場所にありますが、この城は伏見桃山城キャッスルランドというテーマパークのシンボルとして近年に建てられたもので、特に伏見城を再現したものではありません。

秀吉の没後、寧々は秀頼や淀殿がいる大阪城に住んでおりました。しかし、居心地が悪かったのか、大阪城を出て京都に住むことを決意します。なぜ、京都の東地区を選んだのかというと、このあたりには秀吉を祀る豊国神社や秀吉の墓である豊国廟があるからだと思います。

ちなみに、高台寺の建設にあたっては徳川家康が資金面などで協力してくれたといいます。

高台寺

寧々は高台寺内の霊屋という建物で眠っていると伝えられます。

霊屋の中は撮影禁止となっておりました。中には秀吉と寧々の像が置いてあり、寧々の像の下に葬られているようです。

高台寺 霊屋

高台寺内の霊屋

高台寺の紅葉の時期は?

高台寺の紅葉の時期は目安として

「10月中旬~12月上旬」

となります。もちろん、その年の気候などによって早かったり、遅かったりと若干異なってきますので、行く前に紅葉の状況を必ず確認しましょう。

紅葉の時期には夜間拝観(ライトアップ)を楽しむことができます。全国でも屈指の紅葉スポットとなります。

圓徳院

寧々は現在の圓徳院(えんとくいん)にあった化粧御殿で寝起きをしておりましたが、日中は高台寺で過ごしていたそうです。化粧御殿は現在では焼失してしまっておりますが、御殿の前にあった庭園は残っております。

圓徳院と高台寺は今は別々の敷地になっておりますが、元々は同じ敷地でした。

圓徳院

圓徳院の門

こちらは化粧御殿があった場所の前にある庭園です。伏見城の庭園を移設したと言われておりますが、寧々も毎朝起きて、この庭園を眺めていたのかも知れませんね。

女性の方に人気のスポットのようで、女性の方々がゆっくりとくつろぎながら庭園を眺めておりました。寧々にあこがれている女性は多いのかなと思いました。

ねねの庭園

寧々のエピソード

寧々のエピソードをいくつか紹介したいと思います。

寧々の母である朝日局とは絶縁?

2人の結婚は秀吉が25歳、寧々が14歳のときでした。あるテレビの番組で知ったのですが、寧々の母、朝日局(あさひのつぼね)は秀吉(このとき木下藤吉郎)の身分が低いということで、結婚に反対していたそうです。

そして、ついには寧々と親子の縁を切ってしまったそうです。秀吉はその後、関白や太政大臣(だじょうだいじん)と最高位の地位につくことになりますが、それでも母の朝日局と寧々の関係は復縁しなかったそうです。

秀吉が異例の出世をしたのは、もちろん、能力の高さで功績を上げていったということもありますが、寧々が相当なプレッシャーをかけていたこともあったようです。

ちなみに太政大臣というのは今でいうと総理大臣といったところです。武士で初めて太政大臣になった平清盛(たいらのきよもり)が有名ですね。

豊臣秀吉

画像の出典:Wikipedia

 

信長から寧々宛の手紙が残っている?

秀吉と寧々は当時ではめずらしく対等な関係の夫婦だったそうです。ところが秀吉が順調に出世していくと、他の女性と浮気をするようになりました。

これに腹を立てた寧々はなんと信長に止めさせるように訴えかけました。寧々が信長にどのように訴えかけたのかはわかりませんが、信長から寧々への返答の手紙が残っております。

内容はこんな感じです。

「そなたは美しく、あのハゲネズミ(秀吉)にはもったいない妻だ。あのようなものに嫉妬をしないで手のひらで転がしていればよい。そして、藤吉郎もそなたに対して不満があるようで、そなたは言いたいことを少し我慢するとよい。」

あの信長が相当な配慮をして寧々に返答をしていることがわかります。当時はある程度の武将が浮気をするのは当たり前だったようで、信長は秀吉に対しても強くは言えなかったという事情があるようです。

織田信長

画像の出典:Wikipedia

信長がお世辞を言ったのかも知れませんが、この手紙からは寧々が美人で可能性、また、信長が秀吉のことを猿ではなく、このときはハゲネズミと呼んでいたことがわかります。もっともその後に猿と呼んだことがあったのかも知れません。

だれが言っていたのかは定かではありませんが、秀吉には猿面冠者(猿に似た顔つきの若者)というあだ名があったようで、ルイス・フロイスなどによって容姿はよくなかったと伝えられています。身長は一説には「140cm」程度だったとか。

身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており・・・。

ルイス・フロイス

顔が小さく色黒で猿に似ている

秀吉に謁見した朝鮮使節

ハゲネズミに猿面・・・。秀吉と寧々は見た目が不釣り合いなカップルだったのかも知れませんね。

秀吉の女好きはエスカレートしていき、側室はわかっているだけで十数人、一説には300人いたとも言われております。寧々は一体どんな気持ちだったのでしょうか。さすがにこの頃には浮気への耐性は相当ついていたと思われます。

ちなみに秀吉の甥の秀次にも側室が30人ほどいたそうです。秀次が謀反人として処罰された後、その側室たちも悲惨な最後を迎えました。

寧々に子供はいる?

秀吉とねねの間には子供が生まれたのでしょうか?

結論をいうと、秀吉と寧々の間には子供はおりません。

秀吉は子供ができにくい体質だったようです。淀殿との間には2人の子供が出来ましたが、秀頼の容姿は秀吉とは全く似ていなかったようで、血がつながった子供なのか疑う意見もあります。

秀吉の子供は4人と言われてますが、長男の石松丸と次男の鶴松(淀殿が母)は幼くしてなくなっており、もうひとりは女の子でした。側室が大勢いて子供が十人以上いてもおかしくない秀吉ですが、なかなかできず、できたとしても病弱という傾向がみられます。

淀殿が母の鶴丸(つるまつ)はそういった面でみれば、秀吉の子だと思えなくもないですが、とくに病弱とも伝えられておらず、容姿も秀吉と違って大男だった秀頼にはやはり疑問が残る感じがしますね。

秀頼は秀吉が57歳のときの子供で、秀吉にとって子供ができる可能性は、若いときよりも断然に低くなっていたはずです。子供ができにくい体質でなくとも、その年齢で子供を作ることは相当困難だと思われます。

まあ、それを言ったら、秀吉が53歳のときの子供である鶴松も怪しくなりますが・・・。

さて、話を寧々に戻しましょう。

子供はいなくても寧々は面倒見がよかったようで、福島正則、加藤清正らも母のように慕っていたといいます。

高台寺に住むようになってからも、この二人は寧々の元を訪れていたようですし、前田利家の妻で大河ドラマにもなっていた「まつ」も寧々と仲が良くて、訪れていたといいます。

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