高台寺は京都でも有名な観光スポットですが、ここは豊臣秀吉の正妻である北政所が晩年を過ごした場所です。
北政所の読み方は「きたのまんどころ」といいますが、「寧々(ねね)」とか「おね」とか呼ばれることもありますね。
- 高台寺はいつ建てられたのでしょうか?
- 寧々はこのお寺で晩年をどのように過ごしたのでしょうか?
- ねねのお墓はどこにあるのでしょうか?
- 高台寺の見どころはどこ?
- 寧々が寝泊まりしていた圓徳院とは?
この辺りの疑問について答えていきたいと思います。また、一見華やかに思える寧々の人生は過酷な面もありました。
秀吉との結婚を申し出た時に寧々の親は激怒して、その結果、一家は不幸な結末を迎えてしまいました。また秀吉が浮気した際には、嫉妬した寧々は思わぬ行動に出てあの信長をも困らせております。
その辺の寧々と秀吉について残されているエピソードも紹介していきます。
高台寺ってどんなところ?
高台寺がどんなところなのか簡単に紹介しておきます。
高台寺はいつ建てられた?
高台寺は山号は鷲峰山(じゅぶさん)で、正式名称は高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)といいます。北政所こと寧々が秀吉の冥福を祈るために1606年に建立した寺院です。秀吉が没したのが1598年なので、その8年後に建てられたことになります。
ちなみに、高台寺の建設にあたっては徳川家康が資金面などで協力してくれたといいます。
秀吉の死因については諸説ありますが、一説には歯がすべて抜けてしまって、食べ物がろくに食べられなくなってしまったためとも言われております。
入れ歯がなかったので、歯がなくなることは死活問題という時代でした。秀吉の抜け落ちた最後の歯といわれてるものが、豊国神社の宝物館に飾られております。
高台寺の名前の由来は?
秀吉の死後、寧々は出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつしんに)と名乗り、「高台院(こうだいいん)」と呼ばれるようになりました。高台寺の名前の由来は、そこから来ております。
ちなみに北政所となったのは秀吉が関白になった後のことです。元々の意味合いとして、摂政・関白の正室の称号を北政所といいますが、今では北政所といえばイコール寧々という感じになっておりますね。
子供の頃は関白がなんなのかよくわからずに関白秀吉とか言ってましたが、関白というのは朝廷から与えられる位のことです。
よく摂政・関白などと言われますが、摂政(せっしょう)は天皇が幼かったりした場合、代理で政治を行う人です。摂政では聖徳太子が有名ですね。それに対して関白(かんぱく)は天皇の相談役といったところです。要するにとても位の高い偉い人ということです。
伏見城の一部が高台寺に移設?
高台寺は伏見城の一部を移築して作ったと言われております。具体的には茶室などですが、後ほど紹介したいと思います。
伏見城は秀吉が晩年に住んでいた城ですが、現在は残っておりません。跡地には明治天皇陵が立っております。現存している伏見桃山城を秀吉の住城である伏見城と勘違いしてしまいがちですが、この2つは別物です。
伏見桃山城は伏見城の跡地に割と近い場所にありますが、この城は伏見桃山城キャッスルランドというテーマパークのシンボルとして近年に建てられたもので、特に伏見城を再現したものではありません。
寧々は秀吉の死後は大阪城に住んでいた?
豊臣秀頼は秀吉の遺言により、淀君とともに大阪城に移りました。このとき、寧々はどうしたのでしょうか。
秀吉の没後、寧々も大阪城に移り住みました。
北政所は秀吉の正室といっても、秀頼の母は側室の淀殿で、立場はどうしても弱くなることでしょう。居心地が悪かったのか、大阪城を出て京都に住むことを決意します。なぜ、京都の東地区を選んだのかというと、このあたりには秀吉を祀る豊国神社や秀吉の墓である豊国廟があるからだと思います。
高台寺の見どころは?
それでは高台寺の見どころを紹介していきます。
開山堂
開山堂は高台寺創建当初からあるといわれる貴重な建物で、重要文化財となっております。
開山堂に向かって左側に伸びる通路に少し高い屋根がありますが、ここは観月台(かんげつだい)といって、寧々はここから月を眺めていたと伝えられております。
霊屋
高台寺は寧々の墓所としても有名です。寧々は高台寺内の霊屋という建物で眠っていると伝えられます。
霊屋の中は撮影禁止となっておりました。中には秀吉と寧々の像が置いてあり、寧々の像の下に葬られていると言われております。
霊屋の中の様子はこのページで確認することができます。
秀吉の像の下に秀吉の亡骸があればロマンチックな感じがしますが、秀吉の墓は、この場所から少し離れた山の上にある豊国廟です。
豊国廟に行くには、途中の階段地獄をクリアしなければいけません。そのため、歴史的大人物の墓なのに訪れる観光客は少なく穴場となっております。人気が少ないので女性が一人で行くことはおすすめできません。
傘亭・時雨亭
霊屋から少し階段をのぶったところに茶室がありますが、これは時雨亭(しぐれてい)といいます。
その先にあるのが、茶室としてはめずらしい2階建ての傘亭(かさてい)です。どちらの茶室も伏見城から移設したものだと言われており、重要文化財に指定されております。千利休が作った茶室という説もありますが、定かではありません。
展望台
傘亭の先には展望台があります。それほど高い場所ではありませんが、京都の街並みを見ることができます。
ねねの道
ねねの道は高台寺の西側にある石畳の道です。風情を守るために電柱は地中に埋められております。
圓徳院
高台寺は観光スポットしてわりと有名ですが、隣りにある圓徳院(えんとくいん)は意外と知られていないかもしれません。圓徳院とはどんなところなのでしょうか?
晩年の寧々は日中は高台寺で過ごしていたそうですが、圓徳院にあった化粧御殿で寝起きをしておりました。化粧御殿は現在では焼失してしまっておりますが、御殿の前にあった庭園は残っております。
圓徳院と高台寺は今は別々の敷地になっておりますが、元々は同じ敷地でした。
こちらは化粧御殿があった場所の前にある庭園です。整備されていてとても美しい眺めです。伏見城の庭園を移設したと言われておりますが、寧々も毎朝起きて、この庭園を眺めていたのかも知れませんね。
女性の方に人気のスポットのようで、女性の方々がゆっくりとくつろぎながら庭園を眺めておりました。寧々にあこがれている女性は多いのかなと思いました。
高台寺の紅葉の時期は?
高台寺の紅葉の時期は目安として
「10月中旬~12月上旬」
となります。もちろん、その年の気候などによって早かったり、遅かったりと若干異なってきますので、行く前に紅葉の状況を必ず確認しましょう。
紅葉の時期には夜間拝観(ライトアップ)を楽しむことができます。全国でも屈指の紅葉スポットとなります。夜間拝観のスポットして清水寺も人気ですが、比較的近いので高台寺とライトアップのはしごをすることも可能です。
秀吉と寧々のエピソード
高台寺を観光するなら秀吉と寧々のことを知っておくと、より楽しめることでしょう。秀吉と寧々のエピソードをいくつか紹介したいと思います。
寧々の母である朝日局とは絶縁?
2人の結婚は秀吉が25歳、寧々が14歳のときでした。あるテレビの番組で知ったのですが、寧々の母、朝日局(あさひのつぼね)は秀吉(このとき木下藤吉郎)の身分が低いということで、結婚に反対していたそうです。
そして、ついには寧々と親子の縁を切ってしまったそうです。秀吉はその後、関白や太政大臣(だじょうだいじん)と最高位の地位につくことになりますが、それでも母の朝日局と寧々の関係は復縁しなかったそうです。
秀吉が異例の出世をしたのは、もちろん、能力の高さで功績を上げていったということもありますが、寧々が相当なプレッシャーをかけていたこともあったようです。
ちなみに太政大臣というのは今でいうと総理大臣といったところです。武士で初めて太政大臣になった平清盛(たいらのきよもり)が有名ですね。
信長から寧々宛の手紙が残っている?
秀吉と寧々は当時ではめずらしく対等な関係の夫婦だったそうです。ところが秀吉が順調に出世していくと、他の女性と浮気をするようになりました。
これに腹を立てた寧々はなんと信長に止めさせるように訴えかけました。寧々が信長にどのように訴えかけたのかはわかりませんが、信長から寧々への返答の手紙が残っております。
内容はこんな感じです。
「そなたは美しく、あのハゲネズミ(秀吉)にはもったいない妻だ。あのようなものに嫉妬をしないで手のひらで転がしていればよい。そして、藤吉郎もそなたに対して不満があるようで、そなたは言いたいことを少し我慢するとよい。」
あの信長が相当な配慮をして寧々に返答をしていることがわかります。当時はある程度の武将が浮気をするのは当たり前だったようで、信長は秀吉に対しても強くは言えなかったという事情があるようです。
信長がお世辞を言ったのかも知れませんが、この手紙からは寧々が美人で可能性、また、信長が秀吉のことを猿ではなく、このときはハゲネズミと呼んでいたことがわかります。もっともその後に猿と呼んだことがあったのかも知れません。
だれが言っていたのかは定かではありませんが、秀吉には猿面冠者(猿に似た顔つきの若者)というあだ名があったようで、ルイス・フロイスなどによって容姿はよくなかったと伝えられています。身長は一説には「140cm」程度だったとか。
身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており・・・。
ルイス・フロイス
顔が小さく色黒で猿に似ている
秀吉に謁見した朝鮮使節
ハゲネズミに猿面・・・。秀吉と寧々は見た目が不釣り合いなカップルだったのかも知れませんね。
秀吉の女好きはエスカレートしていき、側室はわかっているだけで十数人、一説には300人いたとも言われております。寧々は一体どんな気持ちだったのでしょうか。さすがにこの頃には浮気への耐性は相当ついていたと思われます。
ちなみに秀吉の甥の秀次にも側室が30人ほどいたそうです。秀次が謀反人として処罰された後、その側室たちも悲惨な最後を迎えました。
秀吉と寧々の間に子供はいる?
秀吉とねねの間には子供が生まれたのでしょうか?
結論をいうと、秀吉と寧々の間には子供はおりません。秀吉は子供ができにくい体質だったようです。淀殿との間には2人の子供が出来ましたが、秀頼の容姿は秀吉とは全く似ていなかったようで、血がつながった子供なのか疑う意見もあります。
秀吉の子供は4人と言われてますが、長男の石松丸と次男の鶴松(淀殿が母)は幼くしてなくなっており、もうひとりは女の子でした。側室が大勢いて子供が十人以上いてもおかしくない秀吉ですが、なかなかできず、できたとしても病弱という傾向がみられます。
淀殿が母の鶴丸(つるまつ)はそういった面でみれば、秀吉の子だと思えなくもないですが、とくに病弱とも伝えられておらず、容姿も秀吉と違って大男だった秀頼にはやはり疑問が残る感じがしますね。
秀頼は秀吉が57歳のときの子供で、秀吉にとって子供ができる可能性は、若いときよりも断然に低くなっていたはずです。子供ができにくい体質でなくとも、その年齢で子供を作ることは相当困難だと思われます。
まあ、それを言ったら、秀吉が53歳のときの子供である鶴松も怪しくなりますが・・・。
さて、話を寧々に戻しましょう。
寧々は子供はいなくても面倒見がよかったようで、福島正則、加藤清正らも母のように慕っていたといいます。
高台寺に住むようになってからも、この二人は寧々の元を訪れていたようですし、大河ドラマ「利家とまつ」で松嶋菜々子さんが演じていた「まつ」も寧々と仲が良くて、訪れていたといいます。
秀吉の晩年に醍醐寺で開催された「醍醐の花見」では、前田利家夫妻が招かれました。女性ばかりの花見で男性は秀吉と秀頼、利家しかいなかったといいます。このことからも、豊臣家と前田家の強い家族ぐるみの付き合いが伝わります。
まとめ
寧々の思い出の地である高台寺の歴史や見どころについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
親に縁を切られるなど過酷な運命を過ごした寧々ですが、女性からの人気が高いのか、女性の観光客がやや多かったような気がします。特に寧々の住居地があった圓徳院はその傾向が強かったと思います。
高台寺は昼間の観光もよいのですが、紅葉シーズンのライトアップスポットとしてもかなり人気です。同じく人気のライトアップスポットである清水寺から歩いていける距離なので、はしごすることも可能です。
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