奈良の興福寺ってどんなところ?歴史的背景は?見どころは?

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興福寺の五重塔

奈良の観光スポットとして真っ先に頭に浮かぶのは東大寺でしょうが、春日大社や興福寺もそれに次いで有名なスポットです。

春日大社は駅から少し離れていますが、興福寺は駅から徒歩で行けるので、行きやすい観光スポットでもあります。

興福寺の簡単な歴史的背景や見どころなどについて紹介していきたいと思います。

興福寺へのアクセスは?

興福寺の最寄り駅は近鉄奈良駅で、そこから徒歩で5分程度の場所にあります。JR奈良駅からも行くことができ、徒歩で15分程度です。

15分も歩くのは嫌だと言う方は、JR奈良駅からバスで行くこともできます。最寄りのバス停は「県庁前」で、下車してすぐの場所です。

奈良の超有名観光スポットである東大寺からも、歩いていけることができます。

今回は東大寺から歩いて興福寺(こうふくじ)に向かおうと思います。距離にすると約1キロ程度です。

東大寺の南大門から出て、近鉄奈良駅の方へ向かいます。その道程の途中でしたが、鹿が車道をゆっくりと歩いていました。車に乗っている人は苦笑いをしながら、鹿が通り過ぎるのを待っていました。

車道を横切る鹿

ふと思ったのですが、鹿を引いてしまった場合どうなるのでしょうか?

調べてみると奈良では鹿の交通事故が年間100件を超えているそうです。故意にぶつかった場合は「文化財保護法違反」で罪に問われますが、突発的な事故なら罪にはならないそうです。

ただ、鹿はけっこう重量があるので車が凹んだりします。その際、保険によっては修理費がおりない場合があるので、自家用車で奈良を旅行する方は気をつけてください。

氷室神社

南大門から駅に向かって少し歩くと、氷室神社(ひむろじんじゃ)があります。

奈良時代に春日奥山で氷の神を祀ったのが始まりで、その後、鎌倉時代にこの場所に移されたといわれております。氷室というのは氷の貯蔵庫という意味で、奈良時代にはその意味通り冬に固まった氷を貯蔵していました。

氷室神社

奈良国立博物館

氷室神社からさらに近鉄奈良駅に向かって進んでいくと、奈良国立博物館があります。

仏教美術を中心とした文化財の保管、展示が行われています。国宝、重要文化財なども多数展示されております。

奈良国立博物館

奈良国立博物館を過ぎると、興福寺はもうすぐです。門が見えてきました。

興福寺の門

興福寺ってどんなところ?

ところで、興福寺ってどんなところかご存知でしょうか。ここで簡単に興福寺の歴史的背景について説明します。

興福寺の創建はいつ?

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が病気になってしまった際に、その夫人である鏡大王(かがみのおおきみ)が回復を願い、今の京都に創建することになった山階寺(やましなでら)が起源と言われています。

興福寺は飛鳥時代(669年)に創建されましたが、何回か移転して710年の平城京遷都の際に、この場所に移りました。このとき、鎌足の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)が興福寺と名付けたといいます。

この通り興福寺は、当時絶大な権力を誇った藤原氏ゆかりの寺であります。ちなみに同じく奈良にある春日大社も藤原不比等が創建に関わっているのですが、寺は仏教、大社(神社)は神道の建物で、信仰が異なります。

仏教と神道の対立

奈良時代の前は仏教と神道で国が割れていました。神道を支持していた物部氏(もののべし)が、仏教を支持する蘇我氏(そがし)に破れて滅亡しました。

最大のライバルを倒した蘇我氏は栄華を誇りますが、蘇我氏と関わりの深かった聖徳太子は仏教信者であり、有名な十七条憲法(604年)では、「仏教を信仰せよ。」と記しています。

しかし、645年の乙巳の変(いっしのへん)で後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって、蘇我入鹿(そがのいるか)が殺害され、蘇我氏は滅んでしまいます。

中臣鎌足は後に藤原鎌足と改名しますが、中臣家は鹿島神宮と深い関係があり、どちらかというと神道支持な感じがします。しかし、鎌足以降の藤原氏は興福寺(仏教)、春日大社(神道)の例を見る限りは、仏教も神道も両方受け入れていたということになります。

興福寺の見どころは?

興福寺の簡単な歴史的背景について説明してきましたが、ここからは興福寺の見どころなどについて紹介していきたいと思います。

興福寺には国宝や重要文化財が多くあり、また古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも登録されております。

興福寺の境内図

東金堂

この東金堂(とうこんどう)は国宝に指定されております。

東大寺を建てた聖武天皇が726年に叔母の元正太上天皇の病気全快を願って建立されました。その後は焼失などを繰り返し、現在の建物は1415年(室町時代)に再建されたものです。

興福寺の東金堂

五重塔

興福寺の五重塔も国宝に指定されております。

この塔は藤原不比等の娘である光明皇后(聖武天皇の妻)の発願によって、730年に建立されました。その後は焼失を繰り返し、現在の建物は1426年(室町時代)に再建されたものです。

高さは50.1メートルでありますが、創建当時は約45メートルだったと言われております。現存している木造の塔としては、京都にある東寺の五重塔(54.8メートル)に次いで高い塔ということになります。

興福寺の五重塔

中金堂

中金堂は興福寺の中心となる重要な建物です。興福寺がこの地に移転したとき(710年)に、建てられたと言われております。

この中金堂(ちゅうこんどう)は何度か焼失していましたが、1717年の焼失以降は財政的な問題で再建されていませんでした。そして300年以上経った2018年にようやく再建されております。

興福寺の中金堂

南円堂

重要文化財に指定されている南円堂(なんえんどう)です。

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)の冥福を祈って813年に建立したものです。現在の建物は1789年(江戸時代)に再建されたものです。

興福寺の南円堂

三重塔

五重塔と比べると見劣りしますが、こちらの三重塔も国宝です。

崇徳天皇の皇后である藤原聖子(ふじわらのせいし)が1143年に建てたものですが、1180年に焼失し、その後すぐに再建されました。

興福寺の三重塔

北円堂

こちらも北円堂(ほくえんどう)も国宝です。

興福寺の創建者である藤原不比等の1周忌(721年)に元正天皇が、長屋王(ながやおう)に命じて建てさせたものです。

長屋王は天武天皇の息子である高市皇子(たけちのおうじ)の長男です。有力な皇位継承候補者だったそうですが、729年に藤原氏との対立が元となったといわれる「長屋王の変」で自死に追い込まれました。

ちなみに、このとき長屋王と対立していたのは不比等の子供たち、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)で、藤原四兄弟と呼ばれることもあります。

長屋王からしてみれば、あなたたちのお父さんのために、こんな立派なものを建ててあげたのにと言いたくなるかもしれませんね。

興福寺の北円堂

まとめ

興福寺の歴史的な背景や見どころなどについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。

東大寺は修学旅行などで行ったことはあるけど、興福寺は行ったことがないという方もいるかもしれません。興福寺は近鉄奈良駅から徒歩で行ける距離ですし、東大寺からも歩いていけて、比較的アクセスが便利な観光スポットです。

東大寺に行くついででもよいので、時間があったらぜひ、行ってもらいたいところです。

興福寺から近鉄奈良駅までの距離は200Mから300M程度で、歩いてすぐにいけます。JR奈良駅に行くには、そこからさらに650Mほど歩きます。

ちょっとスケジュールを詰め込みすぎた感がありますが、このあとJR奈良駅まで歩いていって、そこからバスで平城京跡に行きました。

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