戦国最強の武将は誰なのかという質問に、多くの人が回答するのが武田信玄でしょう。
領土を次々と拡大し、優秀な治水事業で土地の平定してきた彼は、ついに上洛を開始し、織田信長と激突する道を選びます。信長は多くの敵を抱えており、このままでは挟み撃ちで危機だと思われたまさにそのとき、信玄はあっけない最後を迎えてしまいます。
信玄はどこでどのような最後を迎えたのでしょうか。墓はどこにあるのでしょうか。信玄の遺骸は諏訪湖に石棺とともに沈められたという説がありますが、このあたりについて解説していきたいと思います。
武田信玄が亡くなった背景は?
武田信玄がどのような背景で亡くなったのかを解説したいと思います。
信玄の上洛開始したのはなぜ?
武田信玄は亡くなる直前に上洛を開始しました。甲斐国を中心に領土を拡大してきた、信玄がなぜ上洛を開始したのでしょうか。それには信長の台頭が影響しています。
斎藤氏を破り美濃を平定した信長は1568年には上洛して三好氏を退け、足利義昭を将軍に擁立しました。着々と影響力を強めていた信長ですが、1570年頃から周辺は敵だらけになりました。これを信長包囲網といいます。この包囲網に参加していたのは浅井・朝倉氏、三好氏、本願寺、延暦寺などです。
1571年の9月、信長は浅井・朝倉氏と協力して信長を苦しめていた比叡山延暦寺を焼き討ちします。この戦いで活躍した明智光秀は比叡山の麓の坂本という土地を与えられ、坂本城を築きます。
この頃から信長は将軍・足利義昭との仲が悪くなっていきます。義昭は全国の武将に信長打倒を呼びかけます。
この呼びかけに応じ、1572年10月に武田信玄がついに上洛を開始します。姪の遠山夫人を信玄の息子・勝頼に嫁がせていた信長にとっては、信玄の裏切りはまさかの事態でした。もっとも遠山夫人はこのときはすでに亡くなっていたとも言われています。
信玄が上洛開始した理由としては、義昭の要請の他にも、いろいろな説があります。
- 本願寺(※)からの要請があった。
- 朝倉氏からの要請があった。
- 北条氏との関係が改善し、背後の心配がなくなった。
- 仏教信仰をしていた信玄にとって比叡山の焼き討ちは許せなかった。
(※)信長と敵対していた本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)は信玄の義兄弟で良好な関係。
三方ヶ原の戦いで大勝利
上洛の目的は領地拡大もあったようです。徳川家康の領土に攻め入った信玄は、次々と徳川方の城を落としていきます。徳川領が信玄に奪われれば、織田家にとっても一大事であり、信長は3千ほどの援軍を派遣します。
二俣城を落とした信玄は、ついに家康のいる浜松城へと近づいて、この城で籠城している家康と信玄が激突するかに見えました。
兵数については諸説ありますが、3万弱の武田軍に対して、織田・徳川連合軍は1万強だったと言われています。武田軍のほうが兵力はかなり上ですが、籠城ならなんとか戦える程度の兵力差でした。
しかし、信玄はここでおかしな行動にでます。南下していた信玄は突如進路を西へと方向転換をし、浜松城を素通りしていきます。信玄の向かった先には堀江城があり、そこを奪われると家康は補給路を絶たれる心配がありました。
家康は部下の反対を押し切って慌てて追撃に出ますが、これは信玄の罠でした。信玄は陣形を整えて三方ヶ原で待ち構えており、両軍は激突します。
1573年1月に発生したこの「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍は信玄の軍に大敗し、家康は命からがらに逃げ回り、僅かな兵とともに辛うじて浜松城に逃げ帰ることができました。
姉川の戦いなどで信長に尽くしてきた家康ですが、この無様な敗戦で信長の信用を相当失ったとも言われています。このままでは徳川領は信玄のものになり、西の浅井・朝倉らと交戦していた信長は背後を付かれる恐れが出てきました。
突然の死!最後の地はどこ?
この事態を見て、信長を倒せると考えた足利義昭は信長討伐のため挙兵します。面白いことに、このとき信玄の父で、クーデーターにより国を追われた武田信虎(たけだのぶとら)が甲賀にいて、兵の収集に関わっていたとも言われています。
信長と家康の窮地に見えましたが、ここで事態が反転します。1573年3月に信玄が病気にかかってしまいます。詳しい病状はわかっていませんが、結核、肺炎、胃がんなどが疑われています。信玄の症状は悪化し、甲斐への撤退を余儀なくされます。
そして1573年4月12日についに信玄は53歳で亡くなってしまいました。どこで亡くなったかはっきりとわかっておりませんが、甲斐までは持ちこたえることができなかったようで、最期の地は長野県・駒場の山中と言われております。
信長にとってはあまりにも都合のいい信玄の突然の最後であることから、忍者などによる暗殺説もあります。食事に毒をもられた、毒の付いた手裏剣を受けてしまったなど想像は膨らみますね。
まあ、豪快なイメージのする信玄ですが、実は体は強くなく、病弱体質で薬を手放すことができなかったとも言われています。
ちなみに信玄の父・信虎はその約1年後に亡くなっております。享年81歳と当時としてはかなり長生きでした。信玄に追放されてから自身の母国である甲斐に戻ることは叶いませんでしたが、甲斐国の大泉寺で葬儀・埋葬がされました。孫の勝頼には信玄の死後に面会を果たしております。
武田信玄の遺言とは?
信玄は死ぬ間際に息子の勝頼を枕元に呼び寄せ、遺言を残しました。内容は次のようなものです。
- 3年間はわしの死を隠せ。
- なにかあったら上杉謙信を頼れ。
勝頼は信玄の遺言を守って、3年間は死を公表しませんでした。しかし、突然の不自然な撤退などから周りの大名にはバレていたようです。
しかし中には信玄の死を知らずに不幸になった人もいました。将軍義昭は信玄が来ると信じて、そのまま信長に挑みますが、京都から追われて1573年7月、室町幕府はついに滅んでしまいます。
背後の心配がなくなった信長は、大軍を送り込んで宿敵だった浅井・朝倉氏を滅亡させます。家康は信玄に奪われた領地の回復に努め、長篠城などを奪還しますが、このことで、やがて起こる長篠の戦い(1575年)へと向かっていきます。
ちなみに、信玄は辞世の句も残しております。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
意味:世の中は世相に任せて生きるものだ。 その中で自分を見つけ出して死んでいく。 上辺だけで生きるようなことはしてはならない。(家族葬のファミーユHPより)
辞世の句を読む限り、志半ばの死でしたが、悔いは残っていないような感じですね。
武田信玄の墓はどこ?
さて、上洛を果たすことがなく亡くなってしまった信玄ですが、お墓がどこにあるかご存知でしょうか。
信玄の墓は諏訪湖の中にある?
武田氏の戦略や戦術を記した甲陽軍鑑(こうゆうぐんかん)という軍学書があります。
この本は武田四天王の一人である高坂昌信(こうさかまさのぶ)が語っていたことを、甥の春日惣次郎らが書き残し、江戸時代になって小幡景憲(おばたかげのり)が編集したものだといわれています。小幡景憲の父である小幡昌盛(おばたまさもり)は信玄と勝頼に仕えました。
この甲陽軍鑑で信玄の遺骸の扱いについて興味深いことが書かれております。信玄は遺言で「遺骸は具足を付けて諏訪湖に沈めること。」と語ったといいます。
このため、信玄の遺骸は諏訪湖に沈められたという説があります。石棺に入れて沈められたという伝説も残っており、石棺の中には大量の黄金が入っているのではないかという憶測もあって、それをテーマにした番組も過去に放映されたことがあります。
確かに興味をそそりますが、この水中墓説は通説にはなっておりません。
3年間限定の秘密の墓?信玄公墓所
甲府駅から3キロほど北に離れた場所で、信玄の館である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地から少し離れたところに、武田信玄公ものもと言われているお墓(武田信玄公墓所)があります。
実はこの墓は信玄の死後直後に建てられたものではありません。武田信玄は「3年の間、死を隠すように」と遺言を残しており、埋葬場所も秘密にされていたようです。その間に隠して埋葬していたのがこの場所だとも言われています。
ここが信玄の墓だとわかったのは信玄死後のはるか未来、江戸時代でした。開墾などの為、この場所を掘っていたら石棺が出てきたといいます。
石棺には「法性院信玄大居士 四月十二日葬」と刻まれており、これは信玄の戒名や亡くなった日と一致するため、武田家の旧臣たちはここを信玄の墓とし、このときに墓碑を建てて現在に至っております。
こちらは武田家の旧臣たちによって建てられた墓碑です。
信玄の遺骸がある場所は?
信玄は3年間に隠された場所で埋葬された後、甲州市の恵林寺で葬儀が行われ、そこに埋葬されたというのが通説となっております。つまりこの説通りだと、現在は信玄の遺骸は恵林寺ということになります。
ちなみに武田信玄公のお墓と言われる場所は他にも、愛知県の福田寺、長野県の長岳寺など諸説あります。
武田信玄公墓所へのアクセス方法は?
他ケア信玄公墓所へのアクセス方法について説明します。最寄り駅はJR甲府駅です。そこから距離は3キロ程度なので少しとお良いですが、徒歩で行くことも可能です。
3キロ歩くのはきついと思う方は、甲府駅からバスで武田神社まで行くと、そこからは1キロ程度です。1キロなら歩いてもいいという方は多いのではないでしょうか。
恵林寺へのアクセス方法は?
恵林寺の最寄り駅はJR塩山駅で、そこからバスで約15分、バス停「恵林寺」で降りてすぐの場所にあります。
武田信玄公墓所周辺の見どころは?
信玄公墓所周辺の見どころも紹介しておきます。
河尻塚
河尻塚は信玄の墓のすぐ近くにありますが、戦国武将で信長の配下である河尻秀隆が埋まっていると言われている塚です。秀隆は武田氏滅亡後に甲斐国を与えられましたが、本能寺の変の混乱で武田氏残党に狩られてしまいました。
武田神社
武田神社は信玄の墓から1キロほど離れた場所にあります。武田信玄が住んでいた躑躅が崎館(つつじがさきやかた)の跡地に1919年に創建されました。武田信玄を祀る神社です。
信玄の墓を観光するなら、先にバスでのアクセスで武田神社を観光して、そこから徒歩で墓に行くことをおすすめします。
まとめ
武田信玄の最後や墓所がどこなのかについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。
信玄は将軍・足利義昭の要請により信長包囲網に参加しますが、もし病気にならなかったら、歴史は大きく変わっていたのではないかとも言われております。
結局、戦国の覇者となって江戸幕府を開いたのは徳川家康ですが、信玄が倒れていなかったら家康は、降伏か自害に追い込まれていた可能性が高いと言えるでしょう。
信玄は死後3年間は、甲府に隠されて埋葬され、その後は遺骸は恵林寺に移されたというのが通説となっておりますが、諏訪湖に沈められたという説も一応は文献(甲陽軍鑑)による根拠があるので、全くありえない説というわけではなく、ちょっとしたミステリーとなっております。
- 信玄が上洛開始した理由は将軍・足利義昭から要請があったため。
- 1573年1月、三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝利する。
- 上洛中、持病が悪化し、1573年4月12日に享年53歳で病死する。
- 死因は諸説あり、結核、肺炎、胃がんなどが挙げられる。
- 自分の死を3年間隠せという遺言を残す。
- 信玄の上洛を信じた将軍義昭は信長に挑んで京都追放。
- 信玄の墓はいくつかあるが、恵林寺に埋葬されているというのが通説。
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