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桓武天皇は何をした人?坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命!最澄と空海を唐に派遣

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桓武天皇陵立て札

桓武天皇は平安時代に26年の長きに渡って在位し、政治改革を行いました。

彼が行ったことで有名な二大事業は、その内容は平安京遷都と、蝦夷討伐です。また、桓武天皇は有名な僧侶の最澄と空海を唐に留学させたことで、仏教にも大きな影響と与えました。

武士の系統としてよく、桓武平氏と清和源氏などと言われたりしますが、有名な平将門、平清盛などは桓武天皇の子孫となります。

ところで、桓武天皇はなぜ爆弾な負担を生じる遷都をする必要があったのでしょうか。また、実の弟である早良親王を処罰し、死に追いやっていますが、なぜこのようなことをしたのでしょうか。このあたりについて解説していきたいと思います。

桓武天皇って何をした人?

桓武天皇は何をした人物なのでしょうか。彼の行った事業などを簡単に見ていきたいと思います。

この時代は壬申の乱(672年)の覇者である天武天皇の系統が主流であり、天智天皇の系統である桓武天皇は、天皇に即位する予定はなく、官僚になるための教育を受けていました

こういった背景があって、彼は政治に強いこだわりを持ち、多くの改革を行ったと考えられます。

桓武天皇はなぜ遷都を行った?

桓武天皇の行った二大事業のひとつが遷都ですが、莫大な予算と人手な必要な遷都をなぜ行う必要があったのでしょうか。

よく言われる遷都の理由は、奈良には有名な東大寺がありますが、当時の平城京では仏教勢力が大きな権力を握っていて、政治にもかなり介入していたといいます。そのことに危機を感じた桓武天皇は、そういった仏教勢力から離れて政治を行なおうとしたということです。

また、平城京は水資源が不足していたことや、水路での物資輸送が不便だったという理由もあるようです。

東大寺の大仏

東大寺の大仏

桓武天皇の遷都は1回ではない?

ところで、遷都は桓武天皇の在位期間中に2回行われたことはご存知でしょうか。

初めの遷都は長岡京で、京都駅から数キロ南西の場所です。桓武天皇は遷都先の第一条件として「物資の運搬に便利な大きな川がある場所」を挙げていましたが、この周辺に桂川など複数の川があって水上輸送に優れていました。

この長岡京遷都は784年に実施され、その後はわずか10年ほどでこの都は廃棄されてしまいます

桓武天皇が長岡京の次に遷都したのが、よく知られる1000年の都、平安京です。平安京の様子は次のマップ(想像図)を見るとよくわかります。

清水寺や東寺、仁和寺などは今でも残っているので、この想像図を見れば、どんな感じで都が広がっていたのかイメージが湧くと思います。

長岡京はなぜすぐに廃棄された?

わずか10年ほどで廃棄されてしまった長岡京ですが、莫大な予算な必要な遷都なのに短期間で廃棄するのは奇妙に感じる方は多いと思います。どのような理由があるのでしょうか。

長岡京遷都の責任者は藤原種継(ふじわらのたねつぐ)ですが、遷都を決めた翌年の暗殺されてしまいます。この暗殺の首謀者として捉えられたのが、桓武天皇の弟で皇太子である早良親王(さわらしんのう)でした。

早良親王は皇太子の権利を剥奪され、淡路への流罪となってしまいます。ところが彼はこの処分に納得がいかず、抵抗のため絶食を続け、淡路への移送途中で衰弱して亡くなってしまいます。

その後、桓武天皇の妻である藤原旅子(ふじわらのたびこ)が急死するなど、桓武天皇のまわりで不幸な出来事が続き、これは早良親王の祟りではないかと言われ始めます。

挙句の果てには長岡京で洪水被害や疫病の発生などもあって、桓武天皇は長岡京をあきらめ、平安京への遷都を決意しました。

京都の北のほうに早良親王を祀る崇道神社(すどうじんじゃ)がありますが、早良親王の霊を慰めるために創建されたと伝えられています。

最澄と空海を唐に派遣

桓武天皇の遷都の理由のひとつは仏教勢力が距離を置くためだったということは、以前に述べました。

このことから、桓武天皇は仏教が嫌いなのだろうと思うかもしれませんが、そうではありません。桓武天皇は最澄(さいちょう)と空海(くうかい)を唐に派遣して、仏教を学ばせています。

帰国後、最澄は比叡山延暦寺を創建し、空海は高野山金剛峯寺を開山しました。これらのお寺の特徴としては、都から離れた山の上にあるということです。

桓武天皇は、仏教を嫌っていたわけではなく、仏教の政治介入を嫌がっていて、都から離れた場所で布教活動をしてもらいたいと考えていたのではないとかと推測されます。

高野山

高野山

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命

桓武天皇が行った二大事業のもうひとつが蝦夷討伐です。この時代、朝廷は全国統一ができておらず、東北には従属していない蝦夷(えみし)という敵対勢力が存在していました

桓武天皇の父である光仁天皇(こうにんてんのう)は蝦夷との対立を深め、774年に大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)に蝦夷の征討を命じます。

桓武天皇も蝦夷との戦いを引き継ぎ、武人として功績を上げていた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命します。

坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と評され、有名な清水寺を建てた人物です。毘沙門天(びしゃもんてん)というのは仏教の武神で、多聞天(たもんてん)と呼ばれることもあります。毘沙門天の化身といえば、戦国武将の上杉謙信が有名ですが、本家本元は坂上田村麻呂です。

また、征夷大将軍というと、歴史上の有名人物として源頼朝や徳川家康が思い浮かぶかもしれませんが、本来は蝦夷を討伐する役職を意味しています

征夷大将軍は都から離れた遠隔地へ滞在するため、こまめに命令のやり取りを行うことができません。そのため、この役職に徴兵権・兵粮徴収権・恩賞給付権といった大きな権限が与えられていました。そこに目をつけたのが源頼朝です。

清水寺ライトアップ

清水寺ライトアップ

蝦夷のリーダー阿弖流為の処遇は?

蝦夷のリーダーは阿弖流為(あてるい)という人でしたが、長期に渡って朝廷軍を苦しめました。桓武天皇も派遣した軍がゲリラ戦などで撃退され、煮え湯を飲まされてた経験があります。

そんな蝦夷の抵抗も、ついに大きな起点を迎えます。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、本気となって拠点を作った朝廷軍についに抵抗することができなくなりります。阿弖流為は降伏し、相方の母礼(もれ)とともに朝廷軍に投降します。

阿弖流為たちの身柄は朝廷に渡されましたが、坂上田村麻呂は彼らの助命を懇願しました。しかし、煮え湯を飲まされ続けてきた朝廷側が、その懇願を受け入れず、彼らは処刑されてしまいます。

光仁天皇の時代から始まった蝦夷との争いは、桓武天皇の死後もしばらく続きますが、三十八年戦争と呼ばれます。

桓武天皇を祀る神社がある?

日本では故人が神社の御祭神として祀られることがありますが、学問の神様といわれる菅原道真(すがわらのみちざね)などが有名ですね。ところで、桓武天皇を祀る神社があるのはご存知でしょうか。

京都にある平安神宮は1895年(明治時代)に平安遷都1100年を記念して、創建されました。この神社の御祭神は、桓武天皇です。平安京遷都をした人なので当然なのかもしれませんが、1000年以上の時を経て、ついに神様になったということです。

平安神宮

平安神宮

平安神宮の場所は京都御苑が1キロ程度東です。最寄り駅は地下鉄東西線「東山駅」です。

桓武天皇陵はどこにある?

桓武天皇陵はどこにあるかご存知でしょうか。彼のお墓があるのは京都の伏見です。

桓武天皇陵

桓武天皇陵

桓武天皇陵へのアクセス方法ですが、最寄りの駅はJR奈良線「桃山駅」で、そこから1キロほどです。

桓武天皇陵の周辺の見どころは?

桓武天皇陵周辺の見どころについても紹介したいと思います。

明治天皇陵

桓武天皇陵から数百メートル離れた場所に明治天皇陵があります。

明治天皇伏見桃山陵

明治天皇伏見桃山陵

伏見桃山城

伏見桃山城は、桓武天皇陵のすぐ近くにあります。

晩年の秀吉の居城として伏見城が有名ですが、この城は伏見城を再現したというわけではありません。以前に「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地がここにありましたが、この建物は遊園地の施設として作られた模造天守です。以前は中に入ることができましたが、現在は入れません。

遊園地は廃園となっていますが、この模造天守は地元などの要望で残されました。伏見城は現在は残っておらず、明治天皇陵辺りに建っていました。

伏見桃山城

伏見桃山城

御香宮神社

御香宮神社は、1868年の鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍(薩摩軍)の本営が置かれた場所です。JR桃山駅から数百メートルぐらいの場所にあり、近鉄京都線・桃山御陵前駅の中間ぐらいになります。

御香宮神社本殿

御香宮神社本殿

まとめ

桓武天皇が何をした人なのかなどについて簡単に説明してきましたが、いかがでしたでしょうか。

官僚になるための教育を受けていた彼は、天皇に即位してからは次々と改革を実行しました。彼の二大事業といわれるのは、遷都と蝦夷討伐です。

遷都については、長岡京と平安京の2回も行っています。長岡京はわずか10年ほどで廃棄されましたが、平安京は1000年以上も都であり続けました。

蝦夷討伐では坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、敵のリーダーである阿弖流為を降伏させることに成功しました。また、有名な僧である最澄と空海を唐に派遣した功績も忘れてはいけませんね。

桓武天皇が眠るのは京都の伏見で、近くには明治天皇陵もあります。

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