甲府駅のすぐ近くには甲府城(舞鶴城公園)があります。
甲府と言えば武田信玄のイメージがありますが、この甲府城は信玄とは関わりがありません。信玄はここから少し離れた躑躅ヶ崎館を拠点としておりました。この甲府城は武田氏が滅亡した後、徳川家康の命令によって作られた城だと言われております。
築城してから長い間、戦いとは無縁の城でしたが幕末には戦闘の舞台となって、あの有名な近藤勇率いる新選組や板垣退助が関わっています。
甲府城がどんなところなのかについて簡単に説明し、見どころなどについて紹介したいと思います。
甲府城ってどんなところ?
なぜ甲府城のある場所が舞鶴城公園と呼ばれるのかというと、甲府城は別名で舞鶴城とも呼ばれていたからです。甲府城がどんなところなのか歴史などについて簡単に解説したいと思います。
甲府城は誰が作った?
甲府城は誰が作った城なのでしょうか。築上の背景について解説していきます。
信玄の時代には栄華を誇った武田家ではありますが、息子の勝頼が長篠の戦い(1575年)で織田信長と徳川家康の連合軍に大敗して、衰退していきました。
1582年に織田・徳川・北条の連合軍による甲州征伐(武田征伐)で、武田家はついに滅亡しました。その後は、織田信長の家臣である河尻秀隆が甲斐国を納めることになりますが、本能寺の変の混乱で、秀隆は討ち取られてしまいます。
秀隆亡き後は徳川と北条で領地の奪い合いになりますが、この辺りは徳川家康の領土となります。家康は信玄の館であった躑躅ヶ崎館を支配の拠点としていましたが、1583年に家臣の平岩親吉に命じて、甲府城の築城に取り掛かります。
家康はその後、関東に領地を移しますが、甲府城は豊臣秀吉の家臣である浅野長政・幸長父子により完成に至りました。
甲府城の広さは?
甲府城はかつては19ヘクタール(東京ドーム約4個分)の広さを誇りましたが、現在では6ヘクタール程度になっております。
信玄の館である躑躅ヶ崎館(現・武田神社)は約4.6ヘクタール(東京ドーム約1個分)なので、かつての広さはそれよりはかなりの規模であることがわかります。躑躅ヶ崎館を拠点としていた家康が甲府城を築城した理由は、規模や防御力に不安があったという理由もありそうです。
線路を挟んで現甲府城の反対側にも城の跡地のようなところがありますが、甲府駅も当時は甲府城の区画内だったそうです。舞鶴城公園は実際に行ってみると、結構な広さですが、それでもかつての規模のほんの一部です。
幕末戊辰戦争の舞台に
江戸時代になると甲斐国は幕府の直轄領になりました。甲府城は長い間、戦闘とは無縁でしたが、幕末戊辰戦争の際には、幕府軍と新政府軍のどちらにとっても抑えておきたい重要拠点となりました。
1868年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、戦いの舞台は近畿から関東へと移っていきました。新政府軍は甲府城を奪うために乾退助(板垣退助)率いる隊迅衝(じんしょうたい)が向かいます。一方、江戸から甲府城を守るために派遣されたのは近藤勇率いる新選組でした。
板垣退助が新選組の先を越して無血開城
新選組長の近藤勇は甲府城支配を希望していましたが、それが叶った格好となります。新選組に甲府城守備の指示を出したのは坂本龍馬の師である勝海舟でしたが、彼は新政府軍と交渉による和解を望んでいました。
新選組はそれまでに新政府側の人間を何人も葬ってきましたが、新政府にとってイメージの悪い新選組が江戸にいないほうが、交渉がうまくいくと勝海舟は考えたようです。前年には坂本龍馬が京都で暗殺されており、新選組の関与が疑われていました。
乾退助の祖先は武田家の家臣である板垣信方(いたがきのぶかた)ということもあり、乾は甲府城に向かう途中に板垣と改名しました。武田家家臣の子孫ということを強調すれば、甲斐国で快く受け入れてもらえると考えたからです。
改名の効果もあってか、退助は甲府城の無血開城に成功します。新選組が甲府城に到着したのはその1日後でした。
甲州勝沼の戦い
本来なら新選組のほうが早く甲府城に到着して、板垣退助は甲府城を奪うためには厳しい城攻めをしなければならないはずでした。なぜ、隊迅衝のほうが早く到着したのでしょうか。
板垣退助らは甲府城を重要拠点と認識して、とにかく急いで行軍しました。一方、新選組は甲府城を手にいれて、これでいよいよ一国一城の主になれると、浮かれていました。
さらには幕府から軍資金も大量に受け取っていました。そのため、道中に宴会などをやって遊んでいたため、行軍が遅れてしまったのです。これは新選組の大失態と言えます。
新選組はしかたなく15キロほど離れた勝沼に陣を敷き、そこで新政府軍との戦いになります(甲州勝沼の戦い)。籠城戦ならなんとかなったかもしれませんが、数で劣る新選組は新政府軍に敗れ、江戸へと撤退していきます。
甲府城の見どころは?
甲府城の見どころについて紹介します。
稲荷曲輪門
甲府城は明治時代に廃城となり、一度取り壊しが行われています。この稲荷曲輪門(いなりくるわもん)も、一旦は取り壊されましたが、平成11年(1999年)に復元されました。
稲荷櫓
甲府城の中には当時の稲荷櫓(いなりやぐら)を再現した資料館があります。稲荷櫓の役目はいろいろとあったようですが、主に場外の監視用のとして使われていたようです。
資料館の中では甲府城築城の歴史などをVTRで見ることができます。また、甲府城の当時の模型図もありました。
最上部からの景色
甲府城の石垣の最上部からは富士山が見えました。
謝恩碑
頂上に建っているお城とはあまり関係なさそうなこの石碑は何なのでしょうか。これは謝恩碑(しゃおんひ)といいます。
ウィキペディアで調べてみると、どうやらこの石碑大正時代に建てられたもののようです。
明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された碑です。(ウィキペディア)
なかなか印象に残る形状ですが、オベリスクをモデルにしているそうです。オベリスクというのは古代エジプトの神殿などに建てられた記念碑(モニュメント)のことをいいます。
鉄門
こちらの鉄門(くろがねもん)も廃城の際に、一度破壊されましたが、2013年に復元されております。
甲府城周辺の見どころは?
甲府城周辺の見どころについても紹介しておきます。
武田信玄公のお墓
歩いていくにはやや遠いですが、甲府城から3キロほど北に離れた場所には武田信玄公のお墓があります。
実はこの墓は信玄の死後直後に建てられたものではありません。武田信玄は「3年の間、死を隠すように」と遺言を残しており、埋葬場所も秘密にされていたようです。
江戸時代に開墾などの為、この場所を掘っていたら石棺が出てきたといいます。
石棺には「法性院信玄大居士 四月十二日葬」と刻まれていたので、これが武田信玄のものだと考えたそうで、武田家の旧臣たちは、このときに石碑を建てて現在に至っております。
ちなみに武田信玄公のお墓がある場所は、ここ以外にも愛知県の福田寺など諸説あります。
石碑はこのようになっております。
河尻塚
武田信玄公のお墓のすぐ近くには河尻塚があります。
ここは織田信長の家臣である河尻秀隆(かわじりひでたか)の屋敷があった場所とか、亡骸が埋まっている場所とか言われているそうです。
秀隆は初期から信長に使えた武将であります。武田氏を滅亡に追い込んだ天目山の戦い(1582年)で活躍し、甲斐国の領主となりましたが、同年に起きた本能寺の変の混乱で武田家旧臣らの襲撃にあって討ち取られてしまいました。
このとき、恨みをかっていた秀隆はさかさに埋められたとも言われております。
武田神社(躑躅ヶ崎館の跡地)
武田信玄公のお墓から1キロほど離れた場所には武田神社があります。武田神社は信玄の住んでいた躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の跡地に作られた信玄を祀る神社です。
戦国時代といえば武将は城に住むのが普通でしたが、攻めることが多くても、攻められる心配があまりなかった信玄には城は必要なかったようです。
躑躅ヶ崎館を作ったのは信玄の父である武田信虎ですが、信虎はすぐ近くに敵が攻めてきたら立てこもれるように城も用意していたといいます。
こちらが武田神社の拝殿(はいでん)となります。
甲斐善光寺
甲斐善光寺(かいぜんこうじ)は甲府駅から3キロほど離れた場所にあります。このお寺は1558年に武田信玄によって建造されました。
善光寺は長野にも信濃善光寺がありますが、川中島の合戦に際して信濃善光寺の焼失を恐れた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとした善光寺の仏像・仏具を甲斐に移すために建てられてたようです。
本殿の中には真っ暗な通路があります。この通路を巡ることを胎内めぐりと呼びますが、以前に清水寺で暗闇の通路を経験したことがあるので慣れていました。ですが、初めての人は一人で入るにはかなり恐怖を感じて、すぐに引き返したくなるかもしれません。
郷土料理「おざら」
見どころというわけではありませんが、夕食は甲府駅近くの店で食べました。
「おざら」という「ほうとう」のつけ麺版?にしてみました。この付近の郷土料理のようで,「ほうとう」はもちろん知っていましたが、「おざら」は実は初めて聞きました。
ほうとうは味噌仕立てですが、こちらは醤油仕立てでした。
まとめ
甲府城(舞鶴城公園)の歴史や見どころについて紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
甲府城は徳川家康によって築城が開始され、豊臣秀吉の配下である浅野長政・幸長父子が完成させた城でした。幕末にはあの近藤勇率いる新選組と板垣退助がこの城を奪い合います。
甲府駅の周辺は、甲府城があって、あとは名物の「ほうとう」を食べるぐらいですが、少し歩けば、武田神社や甲斐善光寺などの観光スポットがあります。歩くのは自身がないというかたでも、バスに乗れば大丈夫です。
甲府は首都圏から車で家族旅行できる場所としても人気があるそうです。ご興味のある方は、ぜひ一度行ってみてください。
- 甲府城は武田信玄とは関係がない。
- 1583年に徳川家康が平岩親吉に命じて築城。
- かつての広さは19ヘクタール(東京ドーム約4個分)。
- 甲府駅のある場所も元々は甲府城の敷地内だった。
- 幕末戊辰戦争で、板垣退助と新選組が奪い合う。
- 明治時代に廃城となり、一度取り壊される。
- 頂上の謝恩碑はオベリスクをモデルにしている。
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