織田信長の家臣には柴田勝家、羽柴秀吉などのように有名で誰でも知っている人もいれば、あまり知られていない人もいます。
歴史シミュレーションゲームをやったことがある方なら知っている河尻秀隆ですが、能力値はものすごく良いわけではありませんが、そこそこいいと言ったところでしょうか。明智光秀や羽柴秀吉には遠く及びません。
この河尻秀隆ですが、織田信長の父である信秀の代から織田家に仕えた忠臣で、信長からの信頼もかなり厚いものでした。どれほど厚かったのかは後ほど紹介したいと思います。
信長の家臣で有名な柴田勝家なんかは織田家の家督争いのときに一度、信長に牙を向いていますが、秀隆は桶狭間の戦いのときにも、悪名高い比叡山焼き討ちのときにも一貫して信長に協力しています。
信長に信頼された秀隆は、ついには22万石の大名になりますが、その栄光は長くは続かず、悲惨な最後を迎えてしまいました。すべてがうまくいっているように見えた秀隆に一体何が起こったのでしょうか。それでは、秀隆の栄光から悲劇まで見ていきたいと思います。
河尻秀隆ってどんなひと?
河尻秀隆とは、どのような人物なのでしょうか。あまりよくわからないという人のために簡単に説明したいと思います。
河尻秀隆の出自は?
河尻秀隆の出自については不明な点が多く、一般的には源氏の子孫と言われています。16歳のときには信長の父である信秀に仕えており、戦にも参加しております。秀隆の「秀」は信秀より譲り受けたという説もあります。1552年に信秀が亡くなり、そこからは信長に仕えています。
織田家の家督争い
信秀の死後は織田家で家督争いが生じます。有名な林秀貞(ひでさだ)や柴田勝家(しばたかついえ)は信長の弟である信勝(信行)側に付きますが、秀隆は信長側に付きます。1557年に謀反の疑いで信勝は謀殺されますが、そのときに活躍したのが河尻秀隆だと言われています。
1560年には有名な桶狭間の戦いが起こりますが、数倍の兵力を誇る今川軍ほうが圧倒的有利な状況だったせいか、織田家では信長に協力しない家臣もいたようです。秀隆は桶狭間の戦いにおいても信長に協力して参戦しております。
黒母衣衆の筆頭に抜擢
信長には黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)という親衛隊がいました。この衆の定員はそれぞれ10人で、信長に目をかけられた武人が選出されました。母衣というのは武士が付けるマントのようなものです。
河尻秀隆は黒母衣衆の筆頭を務めました。この黒母衣衆に有名な武将である佐々成政(ささなりまさ)も属しております。桶狭間の戦いでは黒母衣衆に属している毛利新介(もうりしんすけ)が今川義元の首を取った人物として知られていますが、実は討ち取ったのは河尻秀隆だったという説もあります。
黒母衣衆に選出されるというこは、秀隆はかなり武芸に秀でていたとも推測され、歴史シミュレーションゲームの秀隆の能力値は、やや辛めに設定されているような感じもします。
ちなみに赤母衣衆の筆頭は前田利家(まえだとしいえ)で、こちらのほうがビックネームですね。
信忠の補佐役に抜擢
河尻秀隆は1574年には元服して間もない信長の嫡男・信忠の補佐役に付きました。大事な嫡男を混かけると言うとは、信長にかなり信頼されていたということがわかります。
1575年の長篠の戦いでは、秀隆は信忠に代わって実質、信忠軍の指揮を取っていたと言われています。長篠の戦いの活躍で秀隆は岩村城の城主に抜擢され、5万石の領地を得ることができました。
この後、織田家の家督は信忠に譲られ、信長の後継者となることが確定します。このとき信忠に近かった秀隆と河尻家にとっては、さぞかし将来の見通しが明るく感じていたことでしょう。
甲斐国の大名に出世
長篠の戦いの敗戦で武田家は衰えていきますが、1582年に信長はついに武田領への進行(甲州征伐)を開始します。
織田軍の総大将は信忠で、この戦いには徳川家康の加わりました。圧倒的な信長軍の前に武田軍はなすすべもなく、武田勝頼は自害に追い込まれました。信玄の台頭で天下に名をとどろかせた武田氏はついに滅亡してしまいます。
この甲州征伐でも活躍した河尻秀隆は甲斐国22万石を与えられ、ついに大名に大出世します。新たな領地を得た秀隆は武田の残党狩りを徹底的にやりますが、このことが後の悲劇を招いてしまいます。
河尻秀隆の悲惨な最後
何もかもがうまくいっているように見えた秀隆ですが、誰が予想したことでしょうか、この後まもなく、悲惨な最後を迎えました。
武田氏を滅ぼし、いよいよ天下統一が見えてきた信長ですが、転機が訪れます。信長にはもはや自分を脅かす敵はいないという慢心があったのかも知れません。
京都の本能寺にいた信長は家臣の明智光秀の謀反で命を落としてしまいます。そして、本能寺の近くに滞在していた信忠も、このとき自害に追い込まれています。
領地を奪ってから日の浅い甲斐国は、武田の残党が残っており、平定されたとはいえない状態でした。武田の残党は、この本能寺の変の混乱を好機をみなし、反乱の機運が高まりした。
このとき徳川家康は、秀隆に甲斐の国を脱出したほうがよいのではないかと使者を送りました。
しかし、秀隆はこの忠告は家康が甲斐国を狙っているからだと考え、使者の本多信俊(ほんだのぶとし)を殺害してしまいます。直後に甲斐国で武田残党による国人一揆が起こりますが、これは怒った本多家が扇動したとも言われています。
この国人一揆によって、秀隆は討ち取られてしまいますが、なぶり殺しにされたという説もあります。恨まれていた秀隆は、逆さにされて首の方から埋葬されたと伝えています。広大な領地を手に入れた絶頂期からの、あまりに惨めな最後でした。
河尻秀隆の墓・河尻塚
河尻秀隆のお墓(河尻塚)は、彼の屋敷があったと言われる場所にあります。北部幼児教育センターに隣接、あるいは敷地内にありますが、フェンスで遮られています。
後で知ったのですが、このフェンスは鍵がかかっておらず、中には入れるようです。フェンスの中に説明書きがありますが、その後ろに石で積まれた塚があり、文字が刻まれております。
河尻塚へのアクセス方法は?
河尻塚へのアクセス方法について説明します。最寄り駅はJR甲府駅です。そこから距離は3キロ程度なので徒歩で行くことも可能です。
歩くにはちょっと遠いと思う方は、バスで武田神社まで行くと、そこからは1キロ程度です。1キロなら歩いてもいいという方は多いのではないでしょうか。
河尻塚周辺の見どころは?
河尻塚周辺の見どころも紹介しておきます。
信玄の墓
河尻塚へのアクセスは車があれば楽ですが、それ以外だとあまりよくありません。この程度の塚ならわざわざ見に行く必要もないかなと思う方もいるかも知れませんが、すぐ近くには信玄の墓があります。
案内もあるので場所はすぐわかると思います。河尻秀隆はいいやという方でも信玄の墓なら、多少アクセスが悪くても見てみたいと思いませんか。
武田神社
武田神社は河尻塚から1キロほど離れた場所にあります。武田信玄が住んでいた躑躅が崎館(つつじがさきやかた)の跡地に1919年に創建されました。武田信玄を祀る神社です。
まとめ
河尻秀隆がどんな人なのか簡単に解説し、そのお墓の河尻塚の場所がどこなのかお知らせしましたが、いかがでしたでしょうか。
信長の親衛隊である黒母衣衆の筆頭され、信忠の補佐役も任され、信長からの信頼も厚かった秀隆は、甲州征伐後には、ついに22万石の大名へとなりました。
そんな絶頂期に突如として起こってしまった本能寺の変で、秀隆は地震を信頼してくれた主君の信長と、育ててきた信忠を失ってしまいました。それだけにはとどまらず、恨まれていた武田の残党が国人一揆を起こし、悲惨な最後を迎えてしまいます。
本能寺の変の影響で、信長の甥である津田信澄も濡れ衣を着せられて、悲惨な最後を迎えますが、秀隆もそれと並んで、不幸な最後を迎えた人物と言えるでしょう。
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