奈良県天理市にある石上神宮は、日本の最古の部類に入る神社であり、古代豪族の物部氏と関係があります。
この石上神宮は三輪山の大神神社から続く山辺の道の終着点でもありますが、日本書紀にも登場する山辺の道は現存する日本最古の道として知られています。
石上神宮は長い間、神社としてはめずらしく本殿が存在せず、その代わりに足を踏み入れることができない禁足地があります。
- 創建はいつ?
- 御祭神は?
- 物部氏とはどんな関係?
- 七支刀が公開されている?
- なんで鶏がいるの?
- なぜ禁足地があるの?
石上神宮に関するこれらの疑問について解説し、見どころを紹介したいと思います。
石上神宮ってどんなところ?
石上神宮ってどんなところなのでしょうか。簡単に解説していきたいと思います。
石上神宮の創建はいつ?
石上神宮の創建がいつなのかは、はっきりとはわかっておりません。
崇神天皇7年に物部伊香色雄命によって創建されたと伝えられておりますが、それが西暦何年なのかはわかりません。
第10代天皇である崇神天皇の治世がいつ頃なのかは諸説ありますが、通説では3世紀後半と見られています。そうすると石上神宮の創建も3世紀後半だと考えられます。
拝殿については平安時代末期に白河天皇が寄進したと伝えられていますが、建築様式から鎌倉時代初期に作られたものではないかと見られています。
石上神宮の御祭神は?
石上神宮はどんな神様を祀っているのでしょうか。御祭神について解説したいと思います。
この神社の主祭神は武器に関する3神です。正確に言うと、主祭神は「布都御魂大神」ですが、石上神宮の公式サイトを見る限りでは3神とも同格に扱っているようです。
- 布都御魂大神・・・①
- 布留御魂大神・・・②
- 布都斯魂大神・・・③
①布都御魂大神は神剣「布都御魂剣」に宿る神霊です。この剣は鹿島神宮の主祭神である武甕槌命や初代天皇である神武天皇が使用したと伝えられております。
②布留御魂大神は饒速日命が天から下ってくる際に授けられてた剣に宿っていたとされています。神武天皇は東征のとき、大和国地方の豪族である長髄彦との戦闘になりますが、その長髄彦が奉じていた神が饒速日命となります。饒速日命は神武天皇に降伏して、古代豪族である物部氏の祖神となりました。
③布都斯魂大神は須佐之男命がヤマタノオロチを倒すときに使用した天十握剣(天羽々斬)に宿る神霊です。スサノヲノミコトはヤマタノオロチ大量の酒を飲ませて酔いつぶれさせ、打ち倒しました。このときオロチの尻尾から出てきたのが草薙の剣です。
草薙の剣は天叢雲剣とも言われ、皇位継承で受け継がれている三種の神器のひとつとなっております。三種の神器の八咫鏡は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は皇居、草薙の剣は名古屋の熱田神宮に保管されております。
石上神宮の御祭神は他に配祀神として宇摩志麻遅命や拝殿を寄進したと伝えられる白河天皇などが祀られております。宇摩志麻遅命は饒速日命の息子で、神武天皇に仕えました。
石上神宮と物部氏の関係は?
石上神宮は古代豪族の物部氏と深い関係があります。前にも述べましたがこの神社を創建したのは物部氏です。大和政権において軍事を任されていたと言われる物部氏はこの石上神宮を武器の保管庫として利用していました。
6世紀になると海外から仏教を取り入れたい蘇我氏と、それに反対する物部氏が対立するようになりました。ついには蘇我馬子と物部守屋は587年に戦闘(丁未の乱)となり、物部氏側は敗れてしまいます。
物部守屋はこの戦いで討ち取られてしまいますが、物部氏はその後は歴史の表舞台からは姿を消してしまいます。物部氏が管理していた石上神宮ですが、丁未の乱の後も武器庫として残されました。
蘇我氏と物部氏の戦いで、有名な聖徳太子(厩戸皇子)も蘇我馬子側について参戦していました。聖徳太子と蘇我氏は血縁関係であり、聖徳太子の政治は蘇我馬子の影響をかなり受けていたと考えられます。
聖徳太子は有名な十七条憲法で、「三宝を厚く敬え」と説いています。これは仏教、経典、僧侶を敬いなさいという意味で事実上、仏教を国教とするものでした。
石上神宮の七支刀は公開されている?
石上神宮には国宝の七支刀が保管されております。七支刀には銘文が刻まれておりますが、腐食が酷く解読には至っておりません。3世紀から5世紀の間に朝鮮半島の国・百済から献上されたものだと言われております。
気になるのはこの貴重な国宝である七支刀が公開されているかどうかですね。結論をいいますと、七支刀は普段は公開されていませんが、特別公開されることがあります。
特別公開があるといってもめったに公開されることはなく、最後に公開されたのは2010年で、しかも6年ぶりということでした。頻度を考えると一生に一度見れるかどうかですし、まだ見ていない方はもう見るチャンスはないかも知れません。
七支刀にご興味がある方は、次に特別公開されることがあったら最後のチャンスだと思ったほうがいいでしょう。
石上神宮に鶏がいるのはなぜ?
石上神宮の境内にはなぜか鶏が放し飼いされております。この鶏たちはまったく人を恐れる様子がありませんが、なぜ神宮内で飼われているのでしょうか。
鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから、神聖視されていました。石上神宮でも神の使いとして飼育されています。ただし、イタチなどの野生動物に襲われることもあるそうです。
石上神宮には禁足地がある?
石上神宮には一般人が足を踏み入れてはいけない禁足地があります。禁足地の場所は拝殿の後方にあります。
この禁足地の地中には神剣が埋められている言い伝えがありました。明治7年(1874年)にこの禁足地の発掘調査を行ったところ、剣や勾玉が出てきました。
言い伝えが人々あまり信じられていなかったのか、それともあまり知られていなかったのか、盗掘被害にあっていなかったのが幸いです。
本来は石上神宮は本殿はありませんでしたが、1913年にこれらの出土品を収めるために本殿が禁足地内に作られました。
石上神宮の見どころは?
石上神宮の見どころを紹介していきます。
大鳥居
石上神宮の参道の入口には大鳥居があります。最近では鉄製の鳥居などが多いですが、この鳥居は木製です。1928年に実施された昭和天皇「即位の礼」を記念して作られました。
2010年に修理を行っており、柱などが交換されております。日本産のヒノキの利用が模索されたようですが、結局はカナダ産のものが使用されることになりました。
神杉
大鳥居をくぐると神杉があります。樹齢は400年程度と言われております。楼門の近くにはもう一本の神杉がありますが、そちらは樹齢350年程度です。
石上神宮の神杉は万葉集にも登場します。
石上 布留の神杉 神さびし 恋をもわれは 更にするかも
(柿本人麻呂)
この歌の意味は「石上布留の神杉のように老いてなお、私は恋をしようとしている。」ですが、石上布留というのは石上神宮のことです。作者の柿本人麻呂はは飛鳥時代に活躍した歌人です。
楼門
石上神宮の楼門は1318年(鎌倉時代)に作られたもので、重要文化財に指定されております。
拝殿
石上神宮の拝殿は1081年(平安時代)に白河天皇が寄進したと伝えれたておりますが、建築様式は鎌倉時代初期のものと考えられています。国宝に指定されております。
拝殿の後方には禁足地がありますが、明治時代に禁足地の発掘調査が行われたところ、大刀や勾玉などが出てきました。
石上神宮へのアクセス方法は?
石上神宮の最寄り駅は「JR天理駅」または「近鉄天理駅」となります。天理駅から石上神宮へのアクセスは次の方法があります。
- 徒歩:約30分
- タクシー:約10分
- バス:乗車約20分・バス停から徒歩約500m
歩くと少し遠いですし、タクシーだと高いのでバスがいいと思うかも知れませんが、問題は1日に4本しか出ていないということです。
バスを利用する場合、駅前で天理市コミュニティバス「いちょう号」の乗車し、バス停「石上神宮前」で下車するのですが、バス停から拝殿までは意外と距離があります。バスの時刻表などについては、こちらをご確認ください。
筆者は日が落ちる前だったので、行きはタクシーを利用し、帰りは天理の町並みを見るために徒歩で帰りました。
まとめ
石上神宮がどんなところなのかについて解説し、見どころを紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
この神社は正確な創建時は不明ですが、日本でも最古の部類の神社であることは間違いありません。石上神宮といえば、百済から献納されたと伝わる七支刀を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
この七支刀は特別公開されることがありますが、頻度が少なく、滅多に拝めるこのではありません。筆者も実物は一度も見たことがないので、次に公開されることがあったら、ぜひ見に行きたいと思います。
ご存じの方も多いかもしれませんが、石上神宮がある天理市は天理教がかなり布教しており、宗教都市といった感じになっております。帰りは天理駅まで徒歩で行きましたが、建物や店、人々など他とはちょっと違った雰囲気で、歩いているだけで新鮮な感じがしました。
- 創建がいつかは不明。3世紀後半だと考えれる。
- 創健者は物部伊香色雄命。
- 主祭神は布都御魂大神。布留御魂大神も布都斯魂大神もほぼ同格と考えられる。
- 物部氏の武器保管庫として使用されていた。
- 国宝の七支刀は特別公開されることがある。
- 神の使いとして鶏が放し飼いされている。
- 拝殿後方には禁足地がある。
- 禁足地の発掘調査で剣や勾玉が出現。
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