PR

躑躅ヶ崎館の規模・防御力は?なぜ城じゃない?武田信虎・信玄・勝頼の邸宅

スポンサーリンク

宝物殿の信玄像

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は武田3代「信虎・信玄・勝頼」のが拠点として使った館です。現在は館自体は残っておりませんが、跡地には武田神社が建てられております

戦国時代といえば大名は、北条氏は小田原城、上杉氏は春日山城など城に住むのが一般的でしたが、信玄はこだわって館に住み続けたのはなぜなのでしょうか。この館の規模はどれぐらいあって、防御力などに不安はないのでしょうか。

躑躅ヶ崎館がどんなところなのか、歴史などを振り返り、跡地に建てられている武田神社の見どころなどを紹介したいと思います。

躑躅ヶ崎館ってどんなところ?

躑躅ヶ崎館はどんなどころなのでしょうか。歴史などを簡単に振り返ってみたいと思います。

躑躅ヶ崎館は誰が作った?

躑躅ヶ崎館は1519年に武田信玄の父である信虎によって建てられました。室町幕府3代将軍・足利義満が京都に建てた花の御所をモデルにしたといわれています。信虎はこの館が相当気に入ったようで、未完成の状態でここに移り住みました。

この館に住む前は信虎は甲府市川田町にあった川田館に住んでいました。石和温泉駅から数百メートル離れた場所に川田館跡地がありますが、信虎は川田館時代は水害に悩まされていたという説もあります。躑躅ヶ崎館は比較的高地(標高約350m)にあるため、水害の心配はほぼなくなります。

信虎は躑躅ヶ崎館を守るために翌年、2キロほど北東に要害山城(ようがいさんじょう)を築きました。今川氏が攻めてきたときに信玄の母である大井夫人がこの要害山城に避難し、そのときにここで信玄が生まれたと言われています。

躑躅ヶ崎館は信虎・信玄・勝頼が武田家3代が約60年に渡って居館として利用しました。

躑躅ヶ崎館の規模・防御力は?

躑躅ヶ崎館の規模は東西約200メートル、南北約190メートルで約4.6万平方メートルです。東京ドームとほぼ同じくらいの広さとなります。

この館は何度か拡張が行われてきておりますが、武田氏滅亡後も徳川氏によって拡張されているため、信玄が使っていたときは、それよりも小さい規模でした。

参考までに信玄のライバル上杉謙信の居城である春日山城は東西・南北ともに2キロ、約60万立方メートル(東京ドーム約12.8個分)あったそうです。ここから少しはなれば場所にある甲府城は約19万立方メートル(東京ドーム約4個分)の規模でした。

躑躅ヶ崎館は一応、堀などもあってそれなりの防御力もあったようですが、やはり一般的な城と比較すると、規模も小さく貧弱といえます。野党などの襲撃には対応することができるのでしょうが、敵軍に囲まれて籠城することは想定していないでしょう。

甲府城(舞鶴城)

甲府城(舞鶴城

なぜ防御力の高い城に住まないの?

ここである疑問が生まれるかもしれません。謙信や信長などの戦国大名は立派で防御力の高い城に住んでいるのに、なぜ武田氏は城ではなく、守備が不安な館なのでしょうか。

格式が下がる問題

戦国大名の中にはそれほど名門の出ではなくなり上がった者もいますが、武田家は源氏の末裔で守護という幕府の要職を務めていました。室町幕府の将軍・足利家も源氏の出身です。

このような名門の大名は館に住んで、近くに城を構えるというのが一般的だったようで、これを根小屋式(ねごやしき)といいます。武田氏同じく守護大名の今川義元も駿府にあった館に普段は住んでいまし、名門を自負していた朝倉義景も普段は一乗谷の館に住んでいました。

余談ですが、信長の国として有名な尾張の国の守護は斯波氏(しばし)でした。織田家本家である織田信友(おだのぶとも)が、守護が留守のときなどに代わりをする「守護代」を務めており、分家の信長は家臣としてさらにその下についていました。

天皇や将軍も城ではなく、御所に住んでいましたが、彼らにとっては城よりも館のほうが格式が高く、守護などを務める名家にはふさわしいといったある種の考え方があったのかも知れません。

武田信虎が花の御所を真似して躑躅ヶ崎館を作ったことから見えてくるのは、一般的には「館」とは言われていますが、住んでいる本人たちの心理では「御所」だったのではということです。

一乗谷館の模型|国立歴史民俗博物館

一乗谷館の模型|国立歴史民俗博物館

住み難さの問題

また、戦国時代初期までは、城といえば街から離れて山の上にポツン建てる山城が主流であり、これだと防御性は高いですが、生活面では不便な面もあります。

出かけるときなどは、いちいち下山と登山をしなければならず、高齢者にはかなり過酷です。また、物資や水の確保にも一苦労します。

こういった利便性の問題もあるためか、信長の時代頃から次第に200メートル以下の低い山に城を建てて(平山城)、麓には城下町を作ったりするようになっていきました。

また山ではなく平地の城も登場してきます。堀や石垣などの技術が発展し、平地でも十分な防御性を確保できるようになったためです。

つまり、信虎が躑躅ヶ崎館を建てたときは、城といえば山城が普通で、そんな高いところで普段から生活するのは不便すぎると言った理由もあったのかも知れません。

勝頼が新府城に移ったのはなぜ?

信虎・信玄・勝頼の3代に渡って長い間、躑躅ヶ崎館が武田の本拠地でしたが、1581年、信玄の跡を継いだ勝頼は新たに新府城を築城し、完成前にそこに移ります。親子3代で長年住み続けてきた館から、なぜこんなに急いで移り住む必要があったのでしょうか。

1575年の長篠の戦いで勝頼は織田・徳川連合軍に手痛い敗北を負わされます。その後は、武田家は求心力を失い、衰退の一途をたどりました。

栄華と誇った信玄の時代は他国から攻め込まれる心配などなかったでしょうが、衰退した状態ではそういうわけにいきません。そのようないつ敵が攻めてくるかもわからない背景もあって、防御が強固な城に緊急的に移り住む必要がありました

新府城、完成ならず

新府城を築城を任されたのは、後に難攻不落で知られる上田城を築城する真田昌幸(さながまさゆき)です。有名な大阪城の要塞・真田丸を作った幸村の父です。

これならさぞかし、難攻不落な城ができるのではないかと想像してしまいますが1582年、新府城の完成を待たずして、織田・徳川・北条による甲州征伐(武田征伐)で、敵がなだれ込んできてしまいます。

家臣たちの裏切りも相次ぎ、勝頼は住み始めてから3ヶ月程度の新府城に火をかけて逃げますが、その道中に追い込まれて自害します。このとき勝頼は37歳でしたが、これにより武田氏は滅亡します。

新府城跡

新府城跡

躑躅ヶ崎館跡(武田神社)の見どころは?

躑躅ヶ崎館の跡地は現在は武田神社となっております。この神社は武田信玄を祀っており、1919年に創建されました。躑躅ヶ崎館の跡地(武田神社)の見どころをを紹介していきます。

新橋

新橋は武田神社の入り口にある赤い橋です。

武田神社(躑躅ヶ崎館の跡地)

拝殿

こちらが武田神社の拝殿(はいでん)となります。御祭神の武田信玄は主に「勝運」の神様として祀られています。

武田神社拝殿

信玄御用達の井戸

武田信玄が使用していた井戸です。残念ながら、ここの水は飲むことはできません。

武田信玄が使用していた井戸

宝物殿

宝物殿にはいろいろな刀や鎧、肖像などが飾られています。ここにある刀、吉岡一文字は重要文化財に指定されております。

武田神社 宝物殿

宝物殿の中は基本的に撮影禁止となっておりましたが、最後の方にある信玄の像だけは撮っていいということでした。こちらになります。

宝物殿の信玄像

姫の井戸

こちらは姫の井戸です。

信玄公の息女誕生の際、産湯に使用された事からこのように名付けられたそうです。別名「茶の湯の井戸」ともいわれており、茶会のときの水としても使用されていたといいます。

信玄御用達の井戸は水が飲めませんが、こちらの水は飲むことができます。定かではないですが、信玄もここの水で作ったお茶を飲んでいたのかなと想像してしまいます。

姫の井戸

謎の鶏小屋

見どころといえるかわかりませんが、姫の井戸の近くには、なぜか鶏小屋がありました。なぜこんなところにあるのか不思議に感じましたが、結局、理由はわかりませんでした。

このあたりのブランド鶏肉に「信玄どり」というものがありますが、関連があるのかどうかは不明です。

武田神社の鶏小屋

躑躅ヶ崎館跡(武田神社)のアクセス方法は?

躑躅ヶ崎館の跡地(武田神社)は甲府駅から2キロ強、離れた場所にあります。駅から徒歩で30分程度でも行けますが、緩やかながら坂道なのでバスの利用をおすすめします。

バスは甲府駅の北口から出ており、駅から約8分、バス停「武田神社」で降りてすぐの場所です。100代以上入れる無料の駐車場もあるので、車でも気軽に行くことができます。

まとめ

躑躅ヶ崎館がどんなところなのかについて解説し、その歴史などを簡単に振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか。

小田原城や春日山城と、他の大名は高い防御力を誇る城に住んでいるのに、武田氏は館で大丈夫なのかと思いますが、そこには合理性ではない、なにか名門のプライドのようなものがあったのではないかと考えられます。

強固な城と城下町を作るべきだといった意見も当時あったのではないかと思われますが、信玄の時代は他国に攻めることはあっても攻められることはあまり考えられなかったので、緊急性はなかったのでしょう。

勝頼の時代になって慌てて新府城を築き始めますが、タイミングがちょっと遅かったようです。もっとも、どんな強固な城があっても、このときの織田・徳川の勢いには敵わなったかも知れません。

武田氏滅亡後、甲斐国は一時織田領になりましたが、その後支配した徳川家康は、この躑躅ヶ崎館を拡張などしてしばらく拠点としていました。しかし、やはり守備などに不安があったのか、近くに甲府城を築城しはじめます。

家康はその後、関東に本拠地を移すことになりますが、皮肉にもこの城は家康を牽制する城として、秀吉が完成させました。

  • 躑躅ヶ崎館は1519年に武田信虎によって建てられた。
  • 足利義満が建てた花の御所をモデルにしたといわれる。
  • 信虎は1520年、約2キロ離れた場所に要害山城を築城。
  • 今川氏に攻められ、要害山城避難時に信玄が生まれる。
  • 館の規模は約4.6万平方メートルで東京ドームと同じぐらい。
  • 戦国大名が住む城と比較すると規模は小さい。
  • 堀などもあって、それなりの防御力はあった。
  • 名門の大名は館に住んで、近くに城を構えるというのが一般的。
  • 1581年に勝頼は新府城を築いて完成前に移住した。
  • 新府城は完成することなく、1582年に武田氏は滅亡。

コメント

タイトルとURLをコピーしました