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本能寺跡と本能寺の違いとは?信長の弟が京都からの脱出に成功していた?

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本能寺跡 建物

次々と領土を拡大し、天下統一が迫っていた織田信長ですが、1582年に突如、配下の明智光秀に襲撃され、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。本能寺の変として、よく知られている歴史的事件ですね。

さて、この本能寺の現在について調べてみると、どうやら「本能寺跡」と「本能寺」というのが存在することがわかります。どちらも本能寺の変と関係するのですが、その違いについて解説したいと思います。

襲撃の混乱のなかで信長と近くにいた嫡男・信忠は自害に追い込まれましたが、信長の弟が脱出に成功して、生き延びて意外な影響を残しております。その辺りのエピソードにつていも紹介します。

本能寺跡と本能寺の違いとは?

調べてみると、京都には本能寺跡とそれとは別に本能寺という寺院があります。これらは一体何が違うのでしょうか。

本能寺跡とは?

本能寺で信長は光秀軍に襲撃されますが、このときに寺は消失してしまい、今では跡地に石碑が建っております。一般に本能寺跡といわれるのは、この場所です。

本能寺の変の11日後に明智光秀は落ち武者狩りで討ち取られますが、信長の三男である信孝(のぶたか)は、この場所に光秀の首を晒したといいます。ただし、光秀の首の扱いについては諸説あります。

石碑の後ろに大きな施設がありますが、これは自治会館、高等学校、老人ホームの複合施設となっております。

本能寺跡

本能寺跡

本能寺とは?

本能寺は1591年に豊臣秀吉の命により移転されました。この本能寺跡の北西1.5キロぐらいの場所に移転された寺院が今でも残っております。

本能寺

本能寺

信長の三男である信孝(のぶたか)によって旧本能寺に建てられた信長公廟も移転して、この場所にあります。

この御廟には信長の刀が収められているといいますが、本能寺の焼け跡から出てきたものなのか、別の場所に保管してあったものなのかはわかりません。

焼け跡から信長所有の刀が発見されていたら、記録に残ると思うので、おそらくは後者だと思われます。

信長公廟

信長公廟

本能寺の変とは?

ご存じの方も多いかもしれませんが、本能寺の変を簡単におさらいしておきたいと思います。

本能寺の変の背景

織田・徳川・北条連合軍によって武田氏が滅亡した後、信長は徳川家康を安土城に招いていました。その接待を任されたのが明智光秀です。

しかし光秀は、接待の不手際により信長の怒りをかってしまったといいます。家康に出そうとした魚が腐っていたのが原因とも言われますが、これは後に作られた話のようです。

家康は安土城での接待の後は、信長に進められて京都と大阪を観光していました。信長が本能寺に来る直前まで、本能寺のすぐ近くに滞在していたといいます。

一方、中国地方で羽柴秀吉は毛利氏と対峙していますが、苦戦のため信長に援軍を要請します。信長はこの秀吉の要請を聞き入れ、明智光秀に援軍に向かうよう命じます

このとき、光秀の領地は近江国の一部と丹波国となりますが、これは現在の滋賀・京都・大阪・兵庫の一部をまたいだ地域で、都周辺の重要拠点です。出陣の前に信長は光秀からこれらの領地を没収し、代わりに毛利家の領地を与えるしたといいます。

信長自身も秀吉の援軍に向かおうとしますが、京都の本能寺に立ち寄って、茶会を開催していました。茶会の後、夜は嫡男の信忠と酒を飲み交わしたといいます。信忠は深夜になって、滞在先の妙覚寺へと帰りました。

光秀は形式上は秀吉の援軍に向かうために、自身の拠点である丹波亀山城を出陣しますが、信長のいる本能寺に向かいます。

このとき「敵は本能寺にあり」と言ったことが有名ですが、これは後の創作のようです。光秀の部下のなかには信長を襲撃していることがわからず、家康を討つのかと思ってた人もいたようです。

このとき信長の手勢は150人から250程度だったようで、早朝4時に寺を囲まれてから、騒動は約4時間で収束しました。信長はかなり早い段階ですでに亡くなっていたようですが、光秀が捜索させたところ、亡骸は見つかりませんでした。

信長の最後

信長公記によると、本能寺襲撃の様子を次のように記しています。

信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。

信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむをえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う。

信長は弓を使って応戦し、弓の弦が切れた後は槍で戦っていたといいます。しかし、肘に傷を受けると、火の手の上がる御殿の中へと消えていきました。

本能寺の近くには南蛮寺(教会)があって、宣教師たちはこの時の様子を次のように記しています。

この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた。その後、銃声がして、火の手が上がった。

また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。本能寺では謀叛を予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入した。

信長は起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀という鎌のような武器を振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り、戸を閉じた。

火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」

信長の亡骸が見つからなかったことで、襲撃は長引いたようです。信長は一応は自ら応戦したとありますが、事前に屋敷に火を放っているということは、その前にすでに諦めていたということでしょう。火の手が回るまでの時間、とりあえずは戦ってみたといった感じではないでしょうか。

明智勢が火をつけた可能性も考えられますが、圧倒的に有利でしかも信長だとわかる遺骸がほしい彼らが、屋敷に火をかける合理性はなさそうです。

続いて信長の嫡男・信忠を襲撃

本能寺襲撃の後は明智軍はすかさず、信忠のいる二条御所に向かいます。信忠は妙覚寺に滞在していましたが、次のような部下の助言を受けて、二条御所に移ります。

「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の御新造は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう」

信忠の手勢はせいぜい数百から1500程度であり、必死に応戦したものの二条御所も陥落して、信忠は自害しました。信長は京都滞在中は妙覚寺に宿泊することが多かったそうです。このときは、信忠が妙覚寺に滞在していたので、本能寺を選択したようです。

信長は本願寺や比叡山延暦寺など、仏教勢力とは非常に仲が悪い印象がありますが、宿泊にお寺を利用していたということは、必ずしもそうとは言えないみたいですね。仏教に対して憎悪をもっていたわけではなく、特定の宗派に対して敵対していたことがわかります。

妙覚寺

妙覚寺

二条御所は現在の京都国際マンガミュージアムのあたりに建っていましたが、跡地には「此附近 二条殿址」と書いてある石碑が建っております。

信長の弟が脱出に成功?

このとき信長の弟である織田長益(ながます)も信忠と同じく二条御所にいました。彼はこのとき脱出に成功し、生き延びてその後、秀吉と家康に仕えています。

長益は秀吉に臣従するときに、名を有楽斎(うらくさい)と改めました。当初は「無楽斎」と名乗る予定だったといいますが、秀吉に「あなたの人生は無楽ではなく有楽だよ」と諫められ、「有楽斎」にしたと言われています。

彼は後に「逃げの有楽」などという汚名を着ることになりますが、千利休に学んだ茶人でした。彼の手がけた茶室「如庵(じょあん)」が愛知県犬山市にありますが、国宝に指定されています。

また有楽斎の屋敷が今の東京にありましたが、それが「有楽町」の地名の由来になりました

有楽町駅

有楽町駅

信長の致命的なミスとは?

本能寺の変は信長の油断から起きてしまったことですが、やはり致命的なのは京都に自分の滞在する城を作らなかったことでしょう。現在ではこの辺りには二条城がありますが、これは信長の死後に徳川家康が建てた城です。

本能寺の変のときに二条城が存在していて、信長が数千の兵士でもいいのでつれて、そこに滞在していたら、光秀も謀反ためらったことでしょう。仮に襲撃されたとしても、数日でも持ちこたえることができれば、援軍が期待できます。

信長は何度も京都の寺に滞在してたようですが、光秀はその危険性を早くから気づいていたのではないかと思います。

それを考えると天皇のいる京都御所(京都御苑)も規模は大きいものの、堀などが巡らさせているわけではなく、防御力は当時の本能寺を大差はないと考えられます。永禄の変(1565年)といった将軍の襲撃事件はありましたが、天皇への襲撃事件がなかったのは奇跡かも知れません。

ちなみに、信長は将軍・足利義昭が居城(御所?)として、石垣や堀もあってそれなりに防御力性に優れた城郭(旧二条城)を作って上げました。しかし義昭を京都から追放したときにこの城を破壊してしまったそうです。

この旧二条城を残して自分の滞在先にしていれば、本能寺の変のような結果にはなっていなかったかも知れませんね。

二条城|東南隅櫓

二条城|東南隅櫓

本能寺跡のへアクセスは?

本能寺跡へのアクセス方法について説明します。本能寺跡は場所的には京都駅と二条城の間にありますが、二条城に近く、距離は500メートル程度です。

最寄り駅は地下鉄・四条駅または阪急線・烏丸駅(からすまるえき)で、どちらもそこから徒歩10分弱になります。京都駅からも歩いていくことは可能ですが、距離は3キロ程度です。

石碑の場所は本能寺のあった場所において南西の端部分です。地図でいうと左下の端で、ここから右上の領域に本能寺の区画が広がっていました。

現・本能寺へのアクセスは?

移設後の現・本能寺のアクセス方法についても説明します。

最寄り駅は地下鉄東西線 「市役所前駅」で、そこからすぐ目の前です。最寄りのバス停は「河原町三条停」で、そこからもすぐです。

京阪電車 「三条駅」からだと、徒歩5分程度です。

まとめ

本能寺跡と本能寺の違いなどについて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。本能寺の変についても簡単に振り返ってみましたが、いろいろと謎も多く、今でも憶測を呼んで様々が説があります。

光秀がなぜ裏切ったかには、いろいろな説があって、中には徳川家康が協力していたとかいう説もあります。光秀は本能寺の変の後、すぐに討ち取られたことになっていますが、実は生き延びていて、その後は天海と名を変えて家康に仕えたなどという説もあります。

本能寺の変の当時は、信長はすでに嫡男の信忠に家督をゆずっており、もし、このとき信忠が生きていたら、秀吉の天下統一はなく、信長の権力は普通に信忠に引き継がれていたとも推測されます。

明智軍は本能寺攻略に意外と手こずっていたので、謀反の報告を受けたときにすぐに信忠が京都を脱出したら、有楽斎のように成功していたかもしれません。ただし、それだと父を見捨てて逃げたイメージが残ってしまうので、その辺を嫌ったという可能性もありますね。

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