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国立歴史民俗博物館・歴博の見学レポート!中世の見どころは?

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十二単衣

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)は歴史学、考古学及び民俗学に関する資料が展示されている、日本で唯一の国立博物館です。

国立歴史民俗博物館は主に次の6つの展示室で構成されていることは、以前の記事で説明いたしました。

  • 第一展示室:先史・古代
  • 第二展示室:中世
  • 第三展示室:近世
  • 第四展示室:民族
  • 第五展示室:近代
  • 第六展示室:現代

国立歴史民俗博物館の館内案内図

以前の記事で「先史・古代」についてはレポートしましたので、今回は第二展示室の「中世」の見どころなどについてレポートしていきたいと思います。時代的には「泣くよウグイス平安京(794年)」から、1603年の江戸幕府成立までの間となります。

平安時代

平安時代は平安京に都を遷都してから、鎌倉幕府の成立するまでの時代です。

華やかな貴族のイメージの平安時代ですが、一方では地方の農民は貧しい暮らしをしていました。お米はすべて税として取られ、農民は、ひえ・あわなどの雑穀が主食でした。

貴族の屋敷の模型(東三条殿)

こちらは平安時代における貴族の屋敷(東三条殿)の模型となります。

名門貴族の藤原家が使っていた屋敷であり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌で有名な藤原道長も、ここに住んでおりました。

池のある立派な庭園が印象的です。

平安時代の貴族の屋敷

平安時代の貴族の屋敷

平安貴族の暮らし

貴族の邸宅の中の様子も展示しております。こちらは貴族の寝室で寒さを人目を防ぐために、四方をカーテンで仕切っておりました。

貴族の寝室

貴族の寝室

有名な十二単衣(じゅうにひとえ)を着た女性の模型です。

こちらは春・夏用だそうで、秋冬には展示も衣替えするそうです。

夏の京都といえば、ものすごい暑さであり、旅行を敬遠する人も多いです。しかも、一説では平安時代は比較的温暖な時代で、今よりも平均気温が高かったとも言われております。本当にそうなら、エアコンもない時代にこれを着て過ごすなんて、なんの罰ゲームなのという感じですね。

十二単衣は12枚の重ね着をしているわけではなく、「十二」はたくさんという意味です。

十二単衣

こちらは、貴族の使用していた部屋の様子です。広い部屋を仕切りで仕切って使用していました。床が一部、洋式っぽいのが印象的です。

貴族の部屋

貴族の部屋

鎌倉時代

鎌倉時代の始まりはかつては源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年(いい国つくろう鎌倉幕府)が始まりとされていました。しかし、現在では頼朝が守護・地頭設置権を認められた1185年開始というのが有力になっております。

鎌倉幕府の終わりは1333年です。幕府が京都に設置していた出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)が足利尊氏らによって攻め落とされました。東山区にあった六波羅探題は現在残っておりませんが、跡地には石碑が建っております。

六波羅探題が落ちた翌日には新田義貞が挙兵して鎌倉を攻め、執権である北条高時が自害して幕を閉じました。

義貞は幕府から多額の軍資金をよこせと請求され、怒って死者を斬り捨てました。そのため、幕府は新田義貞の討伐令を出していました。

このままではやられてしまうと思った義貞は、京都が混乱しているこのタイミングしかないと挙兵したのでしょう。義貞の軍勢は当初は150騎程度だったそうですが、いつのまにか20万を超える大軍勢になっていたといいます。

鎌倉は天然の城塞都市

鎌倉は山と海に囲まれた天然の城塞都市でした。中心となっていたのは鶴岡八幡宮です。

源頼朝というと鶴岡八幡宮いたというイメージがありますが、実際は住んでいたわけではなく、邸宅は別にあったそうです。頼朝の屋敷は現在は残っておらず、跡地には小学校が立っております。

鎌倉の町並み

ちなみに、こちらは以前に現地で撮った鶴岡八幡宮となります。

鶴岡八幡宮

武士の館の模型

こちらは資料を元に復元した鎌倉時代における東国の武士の館のとなります。

茅葺屋根で、華やかな平安貴族の館と比較すると、規模はかなり小さく、素朴な感じです。

武士の館の模型

武士の館の模型

室町時代

室町時代は、1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任命され、京都で幕府を開いたのが始まりです。1573年に足利義昭が信長によって、京都から追放されるまで続きました。

実際は1467年から11年にわたって続いた応仁の乱などにより幕府の力は衰え、各地では戦国大名が台頭しておりました。

朝倉義景の館の模型

こちらは戦国大名で織田信長との戦いに敗れた朝倉義景の館の模型です。

鎌倉時代の武家の館と比較するとかなり豪華であり、池がないにしても建物自体は平安時代の貴族の館に近い規模といえます。階段の先にある右上の広場は庭園です。

朝倉義景の館の模型

室町時代の京都の町並み

こちらは1570~1580年頃の京都の町並みの模型です。

応仁の乱(1467年)によって、一時は焼け野原となってしまった京都ですが、この頃には復興して栄えていたようです。

室町時代の京都

室町時代の京都

この頃の京都には鮎を売る桂女(かつらめ)と呼ばれる女性たちがいたそうです。桂女の起源は平安時代まで遡るようですが、定かではありません。

桂女

中世の男性商人の模型です。リュックサックのようなものを背負ってますが、これは千駄櫃(せんだびつ)といいます。

腰刀を所有しているのが印象的で、現在のように平和な世ではないことが想像できます。もっとも、千駄櫃の中にはお金になるものが、たくさん入っているはずなので、このようなものを背負って歩いていたら、現代でも狙われるかもしれません。

中世の商人

山科本願寺の模型

現在の京都市山科区にあった山科本願寺の模型です。

山科本願寺は1532年に六角氏と法華宗徒により焼き討ちされ、現在は残っておりません。ちなみに山科本願寺の前は1465年に京都東山区にあった大谷本願寺が、比叡山の僧兵によって破却されました。その後、1485年に建てられたのが、この山科本願寺です。

山科本願寺の模型

山科本願寺のあった山科区は清水寺のやや東の地区です。

山科本願寺が破却された後は、大阪にあった石山本願寺が本山となりました。織田信長と石山合戦で長く対立していましたが、1580年に領地を明渡して和睦しました。

石山本願寺があった場所は、現在は大阪城が建っております。本願寺は、現在では京都駅のすぐ近くに西本願寺と東本願寺が建っております。

安土桃山時代

安土桃山時代は織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代となります。

信長の居城が滋賀県近江八幡市安土町に存在した安土城、秀吉の居城が京都市伏見区桃山町にあった伏見城だったのが名前の由来となっております。

秀吉は大阪城にいたイメージを持つ方がいるかも知れませんが、大阪城を居城にしていたのは息子の秀頼で、晩年の生活を送って秀吉が息を引き取ったのは伏見城です。

現在、伏見には伏見桃山城というのが存在しますが、これは伏見城とは別の城です。伏見城は現在は残っておらず、跡地には明治天皇陵が築かれております。

安土城天守閣の瓦

こちらは安土城の天守閣で使用していた瓦を復元したものです。安土城は1582年の本能寺の変の後に焼失しました。現在では石垣の一部などが残っております。

安土城天守閣の瓦

刀狩令

こちらは1588年に豊臣秀吉が発令した刀狩令の書状です。複製品であり、原本は大阪城にあるそうです。

刀狩令

御朱印船の模型

御朱印船(ごしゅいんせん)は豊臣秀吉や徳川幕府が出した外国渡航許可である朱印状をもって、東南アジア各地へ渡った貿易船です。朱印船と呼ぶこともあります。

日本の船らしくないですが、唐船造りで、ヨーロッパの技術も取り入れたそうです。

御朱印船の模型

地球儀

1632年にローマで制作された地球儀の複製です。日本の形が、かなりアバウトです。

ローマで制作された地球儀

まとめ

国立歴史民俗博物館(歴博)の第二展示室(中世)の見どころなどについてレポートしてきましたが、いかがでしたでしょうか。

模型の展示がかなり多いので、本などで歴史を学んでいる人でも、また違った中世の世界が見えてくるかもしれません。

歴博では模型や人形も豊富に天智されており、視覚的にもある程度楽しめるので、歴史をあまりしらないお子さんでもそれなりに興味をもって楽しんでくれることでしょう。

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